★ジョルジョ・アガンベン『中味のない人間』(原書1970年、岡田温司・岡部宗吉・多賀健太郎訳)、人文書院
ポップ・アートもまた、レディ・メイドのように生−産活動の二重のステータスの倒錯に基づいている。しかし、ポップ・アートにおいては現象は何らかのかたちで転倒して現われ、むしろ、デュシャンがレンブラントの絵をアイロン台として使うよう提案したときに考察した「相互的レディ・メイド」に類似している。レディ・メイドがげんに技術的製品の領域から芸術作品の領域へと進むのに対して、ポップ・アートは美のステータスから工業製品のステータスへと移動するのである。……いずれの場合においても、異化効果が持続する瞬間を除いては、一方のステータスから他方への移動は不可能である。ゆえに、再現可能なものは独創的なものになることはできないし、再現不可能なものは再現されえない。物体は現存へと到達することはできず、影に包まれ、存在と非存在のあいだの一種の不安なリンボのなかで宙吊りになったままである。そして、レディ・メイドにもポップ・アートにも謎めいた意味のすべてを与えるのは、まさしくこの不可能性にほかならないのである。
引用者註
ネオ・ジオ(シミュレーショニズム)やネオ・ポップをこの議論の延長線に位置づけることが可能だろう。
★ジョルジョ・アガンベン『スタンツェ 西洋文化における言葉とイメージ』(原書1977年、岡田温司訳)、ちくま学芸文庫
詩人たちが理解し描きだすような愛に類似したものが、西洋文化に最初に出現したのは、九世紀以来の医学書に現われる脳の病に関する項目の中で、病理学的な形式においてであった……。医者たちが「アモル・ヘロイクス」という見出しのもとで概説した「メランコリーに似た」陰鬱な症候群の中には、否定的な調子にせよ、詩人たちの高貴な愛を特徴づけることになる要素がほとんどすべて出揃っているのである。この事実はまた、次のことを意味している。つまり、一二世紀に詩人たちによって着手される愛の再評価は、『パイドロス』や『饗宴』(引用者註:プラトンの著書)が西洋哲学の伝統に残したエロスの「高い」概念の再発見によって生じたのではなくて、医学的伝統における「英雄的」な致死の病という分極化を通じて起こったということである。
★ジョルジョ・アガンベン『幼児期と歴史−経験の破壊と歴史の起源』(原書1978年、上村忠男訳)、岩波書店.
この差異、この不連続にこそ、人間存在の歴史性はその基礎を見いだすのである。人間のインファンティア(引用者註:言語活動をもたない状態)が存在するからこそ、言語活動は人間的なものとは同一化されえず、ラングとディスクール、記号論的なものと意味論的なものとのあいだには差異がみられるからこそ、このためにこそ歴史は存在するのであり、このためにこそ人間は歴史的存在なのである。それというのも、純粋言語はそれ自体においては非歴史的なものであり、絶対的に考察したならば自然であって、歴史であるというなんらの必然性ももたないからである。……歴史にはじめてその空間を開くのは、インファンティアなのである。
★ジョルジョ・アガンベン『ホモ・サケル−主権権力と剥き出しの生』(原書1995年、高桑和巳訳)、以文社
剥き出しの生を要求することは、ブルジョワ民主主義においては、公的なものに対する私的なものの優位、集団的義務に対する個人の自由の優位へと人々を導くが、これが全体主義国家においてはその反対に、決定的な政治的判断基準となり、主権的決定の場そのものになるということである。生物学的な生とその諸欲求がいたるところで政治的に決定的な事実となったからこそ、今世紀(引用者註:二〇世紀)に議会主義的民主主義が全体主義国家へと転倒したあの迅速さ、全体主義国家が断絶のないままに議会主義的民主主義へと転換されたあの迅速さが理解できるのであって、さもなければこのことは説明がつかない。……旧共産主義圏の指導階級が最も極端な人種主義に転落した(たとえば「民族浄化」計画を用いたセルビアにおいて)ということも、ヨーロッパでファシズムが新たな形をとってふたたび誕生しているということも、根はここにある。
★ジョルジョ・アガンベン『人権の彼方に 政治哲学ノート』(原書1996年、高桑和巳訳)、以文社
私の顔は私の外である。私のあらゆる固有性が差異を失い、固有なものと共通なもの、内部と外部とが差異を失う点である。顔にあっては、私は私のあらゆる固有性(褐色の髪の、背の高い、蒼白な、傲慢な、感情的な……)とともにあるが、そのうちのどれも、私を同定しないし、私に本質的に属してもいない。顔は、あらゆる様態、あらゆる質が脱固有化、脱同一化される境界線であり、その境界線でのみ、あらゆる様態、あらゆる質が交流可能なものになる。そして、私が顔を見出すところでのみ、ある外が私に到来し、私はある外部性と出逢う。
★ジョルジョ・アガンベン『アウシュヴィッツの残りのもの−アルシーヴと証人』(原書1998年、上村忠男・廣石正和訳)、月曜社
証人の権威は、語ることができないということの名においてのみ語ることができることにあり、つまりは主体であることにある。証言が保証するのは、アルシーヴに保管されている言表されたものの即物的な真理についてではない。証言が保証するのは、自分の保管不可能性、自分がアルシーヴの外部にいること、すなわち−言語の存在として−自分が記憶からも忘却からも不可避的に逃れ出る存在であることについてである。したがって、語ることの不可能性が与えられたところでしか証言は与えられないのだから、そして脱主体化があったところにしか証人はいないのだから、回教徒こそは真の意味で完全な証人なのであり、このため、回教徒を生き残った者から断ち切ることはできないのである。
引用者註
回教徒(Muselmann):ナチスの強制/絶滅収容所において、生きるべき価値がないとして「焼却処分」にされた人々。
up!!★ジョルジョ・アガンベン『残りの時 パウロ講義』(原書2000年、上村忠男訳)、岩波書店
よく知られているように、ベンヤミンにおいては、引用は戦略的な機能をもっている。過去の諸世代とわたしたちの世代とのあいだには密かな約束があるように、過去の文書群と現在とのあいだにも同様の約束がある。そして、引用は、両者の出会いの、いってみれば取り持ち婆さんなのだ。ひいては、それは慎み深くあらざるをえず、時としてその作業を人知れずに果たすすべをわきまえていなければならないとしても驚くにはあたらない。しかも、この作業は、保存しようとするものではなくて、破壊しようとするものである。
★ジョルジョ・アガンベン『涜神』(原書2005年、上村忠男・堤康徳訳)、月曜社
いずれにせよ、本質的なことは、言語のなかに、パロディが自らの発電所を設置するほどの落差と緊張を作りうることである。二〇世紀文学のなかにこの緊張の成果を示すことは容易である。ここではパロディはひとつの文学ジャンルではなく、文学が自己を表すために選んだ言語媒体の構造そのものである。ある種の内的不協和音としての二元論を言語に動員する作家たち(ガッダとマンガネッリ)に、韻文であれ散文であれ、歌の非−場所をパロディ的に祝福する作家たち(パスコリ、そして手法はことなるがエルサ・モランテとランドルフィ)が対応する。いずれにせよ、当然のこととして了解されているのは、(言語と歌の)となりでのみ歌われる−そして語られる−ということである。