Alain Badiou(1937〜)

up!!★アラン・バディウ『ドゥルーズ−存在の喧騒』(原書1997年、鈴木創士訳)、河出書房新社
ストア派の哲学者たち、スピノザ、ニーチェ、ベルクソン、ドゥルーズ自身は、広げられた襞から襞を構築し、再び折り畳み、潜在化させるだろう。プラトニスムはひとつの運命ではない、それは必然的なひとつの反ー運命であり、唯一の投擲と混じり合った骰子の波及効果、閉じた諸配分の上に垂れ下がった開かれたものの潜勢力である。プラトニスムは顛倒されることをやめないだろう、なぜならそれはぜっと前から顛倒されていたからである。ドゥルーズはこの顛倒の回帰の現代の通行許可書である。だが、恐らく至上命令はまったく異なるものである。すなわち、顛倒しなければならないのはプラトニスムではない、それは世紀全体の反プラトン主義的明証である。プラトンは復権されなければならないし、しかもまず第一に、共通の形象であり、世論のモンタージュであり、ハイデガーからドゥルーズへ、ニーチェからベルクソンへ、しかし同じくマルクス主義者たちから実証主義者たちへと流通し、そしてさらに反革命的な新哲学派にも(全体主義的な《思想家-首領たち》の最初の人としてのプラトン)新カント派の道徳家たちにも役立つ装置である《プラトニスム》の脱構築によって。《プラトニスム》は、ポスト現代性と同様に現代性のもっともらしい大構築なのだ。その一般的な否定的後ろ盾はこれである。すなわち、プラトニスムは反プラトニスムの略号のもとに《新しいもの》を正当化するためにしか実在しない。ドゥルーズはたしかに最も寛大で、現代の諸創造に対して最も開かれていて、最も投企的でなく、最も進歩主義的な反プラトニスムを提案した。彼に欠けていたのは、反プラトニスムそれ自身にけりをつけることだけである。
引用者註
バディウはドゥルーズを評価しつつも、自分との違いを画定する。そのドライな評価・姿勢を見習うべきだと思う。


up!!★アラン・バディウ『世紀』(原書2005年、長原豊・馬場智一・松本潤一郎訳)、藤原書店
哲学は根本的に無力だ。こうした幾度も繰り返されるモチーフに囚われた扇情的なジャーナリスムが、世紀において冒されたさまざまな犯罪に立ち向かうのを、私は終ぞ観たことがない。他のすべての思考の手続きと同様、この問いを良かれ悪しかれ担っているのは、哲学なのだ。いずれにせよ、哲学は無力だと異議を唱えた者たちよりも優れた対処をみせたのは、哲学なのだ。だからといって、これまで私は、一度たりとも、アドルノがそれを以て仮説を立てる素振りをみせた、〈アウシュヴィッツ以降、詩を書くことは不可能だ〉という発言に意味があると思ったことはない。ツェランにとってアウシュヴィッツはとりわけ強烈な問い、一種の黒い焔、普遍的にして陰鬱な内密性を保つ参照項だが、私にすれば、であればこそ、ツェランが、これは至高な挑戦だが、絶えずドイツ語に、殺人者たちのこの言語に、かかる創作を担うことを課しながら、三〇年代から四〇年代にかけて人類に起きたことの重大さを測ることができる詩を絶え間なく編み出し続けたことの裡に逆説があろう筈もないのである。この時代の証言者にして詩人であるツェランは、詩がこの世紀を名づけるという責を負ったトラークル、ペソア、そしてマンデリシタームによって開かれた時代を閉-綴じる、当の者なのである。慥かに、ツェラン後にも、いまだなお詩はある。だが、もはや世紀の詩は無い。それ自身についての瞑想としての思考−そのように考えられた世紀は、詩において完き成り了わったのである。
引用者註
解説するまでもないが、4人とも20世紀を代表する詩人。邦訳された詩集が簡単に入手できる。
パウル・ツェラン(1920-1970):ドイツ系ユダヤ人の詩人。自殺。
ゲオルク・トラークル(1887-1914):オーストリア出身の詩人。自殺。
フェルナンド・ペソア(1888-1935):ポルトガル出身。詩人・作家。
オシップ・E・マンデリシターム(1891-1938): ポーランド出身。主にロシアで活動したユダヤ系詩人。収容所で死亡。ふつうマンデリシュタームと表記される。