★ジャン・ボードリヤール『湾岸戦争は起こらなかった』(原書1991年、塚原史訳)、紀伊國屋書店
外科手術的戦争という声もあった。たしかに、湾岸戦争という試験管内での破壊と、試験管内での人工受精とは、何ものかを共有している−受精という現象は本来、生命体を生産するものだが、子どもをつくるだけではじゅうぶんではない。子どもは、新世界秩序の場合をべつにすれば、男女の交配から出現する。戦争もまた、新世界秩序の場合をべつにすれば、敵対者どうしの、二者闘争的で、破壊的で、決闘的な関係から生まれる。ところが、湾岸戦争は無性生殖的で、外科手術的な戦争、ウォー・プロセッシングであり、そこでは、敵はコンピュータ画面上の標的としてしか姿をあらわさない。セックスのパートナーが、ピンク・ミニテルの画面上のコードネームとしてしか姿をあらわさないのと同じだ。それもまたセックスの一種だ、と言うなら、湾岸戦争もまた戦争の一種だとは言えるかもしれない。
★ジャン・ボードリヤール&マルク・ギヨーム『世紀末の他者たち』(原書1994年、塚原史・石田和男訳)、紀伊國屋書店
それでもなお、この国〔日本〕は、セガレンが語った、あの永遠の理解不能性の領域にとどまっている。いまや、すべてが変わろうとしている。すべてが規格化〔モデル化〕され、蒸発しようとしているのだが、そこには一種の解きがたい謎のようなものが残されている。それについては、日本人でさえ何も言えないと考えざるをえないような謎だ。彼らに質問してみたが、彼ら自身が秘密を明かすことができなかった。と言うよりも、明かすようなことは何もないのだ。……日本にかんして、結論を引き出すことはないが、いずれにせよ、現代の技術文明の頂点にあってさえ、絶対的に不可視で空虚な核のようなものが残っていることを、われわれは確認できる。それはバルトが「シニフィアンの空虚さ」として描いたものに対応している。日本文明の奥底には、空虚な地帯がつねに存在する。事物は結局、この地帯をとりまいて組織されるのだ。この空虚さを解読したり、表現したりすることはできない。空虚さとはそういうものだ。
★ジャン・ボードリヤール『完全犯罪』(原書1995年、塚原史訳)、紀伊國屋書店
いずれにせよ、ヴァーチャルなカメラが人びとの頭の中にセットされているのだから、各人が抱えている問題をリアル・タイムで考えるためには、媒体など必要ではない。各人は自分自身にとってすでにテレビ映像的存在となっているわけだ。テレビとメディアはずっと前からメディアに固有の空間を抜け出して、個人の内面の「リアルな」生活につきまとうようになっている。……われわれ自身の意志が、人工的に合成されたイメージと化した世界の中を動きまわるようになったのである。われわれはみな携帯電話を内蔵した存在となったが、そのことは生活とそのイメージの過剰接近や時間的・空間的隔たりの無力化をまねき、重大な混信状態という結果が生じている。テレビ的存在であれ、生中継されるサイコドラマであれ、あるいはあらゆる画面上の情報の即時性であれ、そこにはつねに現実生活の短絡化というおなじ動きが見られるのである。
★ジャン・ボードリヤール×吉本隆明『世紀末を語る あるいは消費社会の行方について』(原書1995年、塚原史訳)、PARCO出版
われわれはパタフィジック〔ジャリの造語で、問題の解決を現実にではなく想像上の諸要素の組み合わせに求めるパロディ的態度を指す〕的世界にすっかり入りこんでしまったのです。つまり、現実の限界をはるかに越え、物理学と形而上学の限界をはるかにこえた世界です。パタフィジックはアイロニー的なものでしたが、そうしたあらゆる状況について立てることが可能な仮説は、事物は最悪の段階に到達すると同時にパロディ的な段階にたどりつく、というものです。したがって現在では、英雄的段階と批判的段階を越えると技術と歴史と価値のアイロニー的段階に入る、という仮説を提案することが可能になっているのではないでしょうか。もしそうだとすれば、われわれはようやく、形而上学の究極的段階としての技術というハイデガー的見解から解放されることになるかもしれません。
★ジャン・ボードリヤール『消滅の技法』(原書1997年、梅宮典子訳)、PARCO出版
強迫観念、自閉症、エクスタシー、ナルシシズム−写真にはこうした要素が性格として含まれている。それは孤独な営みだ。写真のイメージは、断絶し、一回限りで、予測不可能で、取り返しがつかない。ちょうど任意の瞬間における事物の状態のように。あらゆるリタッチ、修正、演出は、おぞましいほどに美的性格をまとっている。写真を撮る主体の時間と空間における孤独は、客体の孤独とその自閉症的沈黙とに呼応している。
★ジャン・ボードリヤール『不可能な交換』(原書1999年、塚原史訳)、紀伊國屋書店
何ものかと交換されることを欲するすべてのものは、結局、不可能な交換の壁にぶつかるほかはない。世界を価値あるものとして意味づけ、世界に独自の意味をあたえようとする、もっとも用意周到でもっとも巧妙な企てでさえ、この乗り越えられない限界にさえぎられて挫折する。そして、何ものとも交換されないもの[無と交換されるもの]が、幻覚を誘うほどのやりかたで増殖してゆく。最高度に構造化されたシステムは、システムにつきまとうこの無をとりもどそうとして錯乱に陥ることしかできない。といっても、未来に起こるなんらかのカタストロフィーのことを言っているのではない。いま、ここで、これからすぐに、あらゆる価値の構築物は無と交換されるのだ。現代のニヒリズムの真の命題は、哲学的、道徳的考察のなかにではなくて、まさにこの点に存在している−価値自体を否定するニヒリズムだ。それこそはわれわれの宿命であって、そこからはもっとも幸福であると同時にもっとも不幸でもある、さまざまな結果がもたらされる。
写真の沈黙によって、騒音、話し声、ざわめきに抵抗すること−写真の不動性によって、動きと流れと加速に抵抗すること、写真の秘密によって、コミュニケーションと情報の連鎖に抵抗すること−意味作用の沈黙によって、意味の道徳的強制に抵抗すること。とりわけ、イメージの自動的進入に、それらの絶え間ない継起に抵抗すること。そこで失われるのは、対象物の胸を突くような特徴や細部(プンクトゥム[微細な点])ばかりでなく、写真の瞬間そのものだ。その場で完了する、不可逆的な、そしてそれゆえつねにノスタルジックな瞬間。この瞬時性は、リアルタイム[TVの生中継や生番組中の時間など]の同時性とは正反対である。リアルタイムで生産され、リアルタイムで消滅するイメージの流れは、瞬間の次元であるあの第三の次元とは無関係だ。視角の流れは変化しか知らず、イメージはそこで、もはやイメージとなる時間さえ持たない。あるイメージが、他の何ものにも先んじてイメージとなるためには、イメージがすべてに優先される必要がある。このことは、世界の騒々しい動きの中断とすべてを放棄する戦略によってしか可能ではない。
引用者註
最初の引用文は2001年の9・11を予言したとの説がある。
up!!★ジャン・ボードリヤール+ジャン・ヌーヴェル『les objets singuliers−建築と哲学』(原書2000年、塚原史訳)、鹿島出版会
私自身は、建築にとくに関心をもってきたわけではないし、建築に特別な感情を抱いているわけでもない。私が関心をもったのは空間のほうであり、いわゆる「建造された」オブジェ(物体=対象)のうちに存在する、空間のめまいを誘うすべてのことがらのほうだ。私を熱中させるのは、ボーブール、世界貿易センター、バイオスフィア2のような建造物、つまり特異なオブジェなのだが、それらは私から見て、とりたててすばらしい建築だというわけではない。私がこれらの建築に惹かれるのは、建築的な意味のせいではなくて、それらが表現している世界のためだ。世界貿易センターのツインタワーのような建物の場合、真実とはいったい何だろうか。あの場所で、建築はひとつの社会状況を、構築された完全なフォルムのうちに意味づけ、表現している。そこではすでにハイパー・リアルな時代が事実上素描されているような状況のことだ。あの二つの塔は、二枚のパンチカードのように見える。今日では〔二〇〇〇年現在〕、あのツインタワーはおそらくすでにクローン操作を施されて、たがいに相手のクローンとなっているともいえそうだが、そのことで、時代を先取りしていたのではなかったろうか。もしそうなら、建築とは目の前の現実ではなくて、その社会のフィクションのうちに、未来を先取りする幻想のうちに存在しているのではないだろうか? あるいは、建築とは、目の前の現実をただ単に表現するだけなのだろうか?「建築の真実は存在するか?」と問うことは、建築と空間には、知覚による認識を超えた目的性が存在するかもしれないと考えることでもあるのだ。
引用者註
世界貿易センターのツインタワーが崩壊するのは、翌2001年9月11日。
★ジャン・ボードリヤール『パワー・インフェルノ−グローバル・パワーとテロリズム』(原書2002年、塚原史訳)、NTT出版
テロという暴力的な対抗手段の客観的条件をつくりだしたのは、実はシステムそのものなのだ。あらゆるカードをひとり占めにして、システムは他者にゲームの規則の変更を強要する。そして、新しいゲームの規則は、その掛金となる目標が残酷であるだけに、いっそう残酷なものとなる。権力が過剰になりすぎて、誰もその挑戦を受けて立てないようなシステムに、テロリストたちは取り引きが不可能であるような、決定的な行為で立ちむかう。テロリズムはすべてが取り引きされるシステムの渦中に、他の何ものにも還元できない特異性を復活させる行為である。あらゆる特異性(人種、個人、文化)は、みずからの特異性を死滅させるという代償を払って、単一の権力に管理される世界規模の流通過程を定着させてきたのだが、いまやテロリズムによる状況の転移によって、復讐をとげようとしている。
★ジャン・ボードリヤール「世界の暴力」(原書2003年、『ハイパーテロルとグローバリゼーション』所収、宇京ョ三訳)、岩波書店
メディアの正常な体制においては、イメージは出来事に対する架空の避難所役を果たしています。それは出来事からの、一種の逃避、祓いです。この意味において、それは出来事に対してなされた暴力です。WTC(世界貿易センター)ビルの場合は、その逆で、出来事とイメージ、この二つの過融解が起こっており、イメージ自体が出来事的になります。イメージがイメージのまま出来事となるのです。そのため、イメージはもはや仮想的でも現実的でもなく、出来事的になります。同様に、これほど例外的な出来事においては、現実と虚構の過融解が起こります。ですから、現実の喪失があるのではなく、逆により多くの虚構に結びつけられたより多くの現実があるわけで、いわば、モースが全体的社会的事実について語ったのと同じく、われわれは全体的な象徴的事実に係わっているのです。この極度の段階では、イメージも出来事も想像できないものとなります。
引用者註
モース:フランスの人類学者マルセル・モース(1872〜1950)のこと。
★ジャン・ボードリヤール『暴力とグローバリゼーション』(原書2003年、塚原史訳)、NTT出版
サリン事件と9・11の間には根本的な相違が存在します。9・11のテロの場合、死を賭けた攻撃がなされました。つまり、いわゆる自殺攻撃です。これは人格的なテロリズム、つまり決闘のような形態であって、そこではテロリストはみずからの死を賭けて闘うことになります。これが、サリン事件のような非人格的なテロとの大きな違いです。結果は似ているかもしれませんが、そこには、9・11のような高度の象徴性やパワーは存在しません。行為はその構造によって判断されるべきであり、この点で、両者はまったく別のものです。地下鉄内で起こったサリン事件は、むしろアクティング・アクト的で病理的な性格を帯びているように、私には思われます。だから、象徴的なパワーをもたず、システムを動揺させることはなかったのです。
予防的戦略は、これから起こる出来事や犯罪だけに作用するわけではなく、過去の出来事にも事後的に作用します。イラク戦争は、サダムの無力化だけでなく、9・11の屈辱感と心的外傷の消去も目的としているのです。だからこそ、この戦争は二番煎じの出来事、代用品としての出来事(サダムのイメージさながらに)操り人形のような出来事、つまり非・出来事なのです。9・11とともに始まったのは、巨大な喪の作業と同時に、巨大な避妊の作業でした。つまり、事後的に9・11は起こらなかったことにしようというわけです。したがって、イラク戦争の目的は別のところにあり、戦闘はある種の疑似餌であり、巨大な欺瞞となります。もっとも、それは絶望的な欺瞞で、何ものも9・11を消し去ることはできません。というのも、9・11は象徴的な出来事であり、象徴的な出来事はどれほど圧倒的な力に頼っても、消去できないのです。