★ジークムント・バウマン『近代とホロコースト』(原書1989年、森田典正訳)、大月書店
私はホロコーストという出来事が近代的官僚制度や、その道具的理性の文化によって決定されたというつもりはないし、また、近代的官僚制がかならずホロコースト型の現象を生むというつもりもない。しかし、道具的理性のルールにはそうした現象を防止する力が完全に欠けていることは指摘したい。こうしたルールにはホロコースト型の「社会工学」的方法の不適切性や、その方法に従った行動の不条理性を判断する基準がまったく備わっていない。さらに社会を運営・管理の対象、解決されるべき幾多の「問題」の集合体、「統制され」「征服され」「改良され」「作り変えられ」るべき「性質」、「社会工学」の正当な標的、設計され、計画された形のまま維持(造園的態度は植物を育成すべき「草花」と、根絶すべき雑草に分ける)されるべき庭園としてみるように促す官僚的文化の雰囲気は、まさに、ホロコーストを着想し、ゆっくりと、しかし、着実に発展させ、決着に導いた文化のそれと同じものであったことは指摘しておきたい。また、ホロコースト型の解決を可能にしただけでなく、明らかに「合理的な」ものとしたのは、すなわち、選択を必然的なものとしたのは、道具的理性の精神であり、それの近代的・官僚的形式の制度化であったことも指摘しておきたい。ホロコースト型解決策の選択可能性の増大は、非道徳的なものをも含むあらゆる目的の追求において、多数の道徳的個人の行動を調節できる近代官僚制の能力と無縁ではなかった。
★ジグムント・バウマン『政治の発見』(原書1999年、中道寿一訳)、日本経済評論社
不確実性や不安定性の発生を背後で支えるメカニズムは、かなりグローバルであり、しかも、既存の政治制度の範囲を超えたところにある。すなわち、選出された国家当局者の範囲を大きく超えたところにある。マニュエル・カステルズが最近示唆したように、今日の世界は、一連の重複するネットワーク、すなわち、株式取引所、テレビ・チャンネル、コンピュータ、あるいは、国家という一連の重複したネットワークとして構成されている。ネットワークは、空間的かつ時間的制約にもはや本質的に服さない過程−権力、資本、情報という−「フロー」のサイトである。インターネット利用者の経験は、ここに記されているような特徴を、その本質的な認識枠組みとして提供している。カステルズによれば、我々は、階級なき階級社会のなかに、また、資本と権力が純粋に循環する超空間(ハイパースペース)へと逃げ込み、もはや「資本家」や「支配」階級に具象化されない「グローバルな電子カジノ」のなかに生きている。他方、政治は、以前と同様に、本質的にローカルな事柄のままである。
★ジグムント・バウマン『リキッド・モダニティ 液状化する社会』(原書2000年、森田典正訳)、大月書店
永遠性の価値の低下は文化的変動ももたらし、文化史上の一大転換点となった。重い近代から軽い近代へ、堅牢な近代から流体的近代への移行は、新石器革命以来最大の出来事とされてきた、資本主義と近代の到来をしのぐ変化となるかもしれない。人類の歴史において、文化的仕事・作品の役割は、無常ではかない人間の生活、行動の殻から永遠性の種をとりだし、蓄積し、一過性から永続性を、不連続性から連続性を魔術的に呼びおこすことであった。また、人類不滅のために、生者必滅の限界を超克することでもあった。こうした仕事や作品の需要は、昨今、あきらかに減少しているといわざるをえない。需要の減少がいかなる結果を生みだすか、いまの段階で予測することはむずかしい。なぜならば、学び、参考にできるような前例がないからである。
up!!★ジグムント・バウマン『個人化社会』(原書2001年、澤井敦/菅野博史/鈴木智之訳)、青弓社
名声(fame)は、個人が不死性を獲得するための王道であった。それは、有名性(notoriety)に取って代わられてしまった。それは、作品=業績−しばしば苦労を重ねて生み出された−というよりもむしろ消費の対象である。消費社会におけるすべての消費対象と同様に、有名性はその瞬間ごとに獲得され、すぐに汲み尽くされてしまう満足をもたらすようにデザインされている。同時に、消費社会は予備部品と使い捨ての文明であり、そこでは、補修と保存の技術は余分なものとなり、すっかり忘れ去られてしまった。有名性は、瞬間のものである限り使い捨てである。不死の体験もまた同様である。そしていまやその体験は、かつて体験されたと見なされるものの代用品であるので、瞬間的でも使い捨てでもないような不死を考えてみることはほとんど不可能になってしまった。そして、それは求められてもいないのである。
引用者註
有名性(notoriety):英語のnotorietyは、通例、“悪評・悪名(の高い人)”という意味で軽蔑的に使われる。形容詞はnotorious。
up!!★ジグムント・バウマン『コミュニティ 安全と自由の戦場』(原書2001年、奥井智之訳)、筑摩書房
権利上の個人がコミュニティを追求するとすれば、倫理的なコミュニティであって、それはほとんどあらゆる点において、「美的な」コミュニティの対立物にあたる。倫理的なコミュニティは、長期の関与、譲ることのできない権利と揺るぎない義務から組み立てられる必要がある。永続性が期待できる(制度的に保証されていれば、なおさらよい)からこそ、未来を計画したりプロジェクトを構想したりするときに、既知の変数として扱うことができるのである。そして、コミュニティを倫理的なものにする関与は、「友愛の分かち合い」といった類のものであり、個人の生活とは切っても切れないリスクである錯誤や不運について、すべてのメンバーがコミュニティから保証を受ける権利をもつことを再確認するのである。要するに、明らかに事実上の個人でなく権利上の個人にすぎない者は、コミュニティの概念のなかに、確実性、安定性、安全性の保証を読み取るであろう。
引用者註
バウマンは、コミュナリズムの源泉として、美的コミュニティと倫理的コミュニティの2つをあげている。
美的コミュニティはたしかに一時的なペグ・コミュニティかもしれないが、潜勢力はあると思う。そこを評価するかしないかで議論も変わってくる。
★ジグムント・バウマン『廃棄された生−モダニティとその追放者』(原書2004年、中島道男訳)、昭和堂
前近代の生活が、人間の生命を除いたすべてのものが無限に持続することの繰り返しであったとすれば、リキッドな近代の生活は、毎日が、普遍的なはかなさの繰り返しである。世界のなにものもけっして持続しないし、ましてや永久に続くものなどありえない。今日は、なくてはならない有益なものであっても、ごくわずかの例外を除けば、明日には廃棄物となる。本当に必要なものなど何もないし、取り換えのきかないものなど何もない。あらゆるものが、差し迫った死を刻印されて生まれている。生産ラインを去るとき、あらゆるものに「賞味期限」のラベルがつけられるのである。(もし義務づけられていれば)取り壊し許可が発行されていないかぎり建設工事は始まらないし、契約も、その持続期間が決まらないと、あるいは、将来の危険しだいでその終了が認可されていないと、署名されはしない。いかなる歩みもいかなる選択もこれが最後ということではないし、取り消しのきかないものは何もない。どんなコミットメントであれ、もはや後に引けない段階にまで到達するほど続きはしない。天然のものであれ製造されたものであれ、人間のものであれそれ以外のものであれ、とにかくすべてのものが追って通知があるまでのものであり、なくても済むものなのである。リキッドな近代の世界の住民および彼らのあらゆる労働と産物の頭上には、ひとつの妖怪がうろついている。余剰という妖怪が。リキッド・モダニティは、過剰、余剰、廃棄物および廃棄物処理の文明なのである。
★ジグムント・バウマン『アイデンティティ』(原書2004年、伊藤茂訳)、日本経済評論社
私たちの液状化した世界では、生活のために、あるいは生活全体ではないにせよ、来るべき非常に長時間、単一のアイデンティティにコミットすることは危険なことです。アイデンティティは身につけて示すものであって、保管して維持するものではありません。現在、私たちがこれまで述べてきたことから、すでに多くの事態が生じています。しかし、これが、私たちの誰もが好むと好まざるとにかかわらず、その下で日々のなりわいに精を出さなければならない条件だとすれば、インターネットのチャット集団や携帯電話のネットワークのような電子機器とそれに付随する事柄を、こうした状況の元凶だと非難するのは賢明ではないでしょう。むしろ逆です。つまり、それは、私たちが絶えず自分たちのアイデンティティをひねったり、型に入れたりせざるをえないためであり、たとえ私たちが、そうした電子機器に、役に立って、数百万人に熱烈に支持されることだけさせたいと望んでも、一つのアイデンティティに執着することはできないのです。
★ジグムント・バウマン『リキッド・ライフ 現代における生の諸相』(原書2005年、長谷川啓介訳)、大月書店
現代の文化はますます「消費主義症候群」に征服されつつある。この症候群は、「生産社会」あるいは「生産主義の社会」の基底をなしていた原理−「すぐに満足を求めない」という教訓、じっくり取り組むことの美徳−をはっきりと否定することに力点を置いている。これまで受け継がれてきた価値の序列において、「消費主義症候群」は、「持続性」を玉座から引きずり下ろし、「一時性」の価値を高めた。継続よりも目新しさの方が価値が高いとされたのである。もちろん、文化創造が現在おかれている苦境を消費産業のせいだけにするのは、公平でないばかりか思慮深さに欠ける。消費産業は、筆者が「リキッド・モダニティ」と呼ぶ生活様式によく噛み合っている。消費産業はリキッド・モダニティの生活様式と相性が良く、互いに補強しあいながら、現代の男女が現実的に取りうる選択へ影響を及ぼしている。リキッド・モダン文化は、歴史家や民族誌家の報告の中に記録されたような、学習と蓄積の文化ではもはやない。それはむしろ、かかわりの解消、不連続性、忘却の文化のようである。