★ジュディス・バトラー『触発する言葉−言語・権力・行為体』(原書1997年、竹村和子訳)、岩波書店
社会的な中傷言葉を発する主体は、中傷をもたらす呼びかけの長い繋がりによって起動させられている。主体は、その種の発言を引用することによって、つまり自分がその発言の起源となって行為することによって、時系列のなかにおのれの位置を獲得する。だが主体−効果は、まさにその引用の帰結でもある。それは派生的なものであり、遅延された換喩の効果であって、その結果、そのときに想起される呼びかけの長い伝統は、主体、すなわちその発言の「起源」のなかに、隠されてしまう。もしもその発言が告発されるべきものなら、その告発はいつどこで始まり、いつどこで終わるのか。これは、その時間性のゆえに法廷に引き出すことが不可能な歴史を告発する試みと、似たものではないだろうか。もしも虚構的な起源として主体が果たしている機能が、その主体形成の系譜を封じ込めるものなら、主体は、主体が偽り隠している歴史の責任の重荷を引き受けるために、まさに主体として就任させられていると言える。したがって歴史を司法のもとに置くことが可能になるのは、主体を探し出して、責任を負いうる者として告発し、それによって、そもそも告発し得ない歴史とみなされてきた事柄を、とりあえずは一時的に解決することによってである。
up!!★ジュディス・バトラー『アンティゴネーの主張 問い直される親族関係』(原書2000年、竹村和子訳)、青土社
ジョージ・スタイナーは『アンティゴネー』が歴史のなかでどのように使われてきたかを論じるさいに、彼自身はそれ以上追求しなかったが、論議の的になるような問いを発した。それは、もしも精神分析がその出発点にオイディプスではなく、アンティゴネーを選んでいたら、どうなっていただろうかという問いだった。……アンティゴネーは、親族のなかにどんな首尾一貫した位置も与えない、蜘蛛の巣のような関係性のなかに絡め取られている。厳密に言えば、彼女は親族関係の外にいるのではなく、また事実、理解不能なわけでもない。彼女の状況は理解されうるものだが、しかしひどく恐れられながら理解されているのである。親族関係は、単に彼女がそのなかにいる状況というのではなく、彼女がおこなう一連の実践であり、その反復実践をとおしてのみ、時を通じて再制定されていく関係である。彼女は兄の埋葬をするが、彼女は単に、あたかも親族関係がその行動を引き起こす原理であるかのように、親族関係からそれをおこなっているのではなく、彼女の行動こそが親族関係の行動なのであり、つまり親族関係を公的スキャンダルとして再定位するパフォーマティヴな反復なのである。
引用者註
ソフォクレスの『アンティゴネー』『コローノスのオイディプス』『オイディプス王』を読んでからアプローチすればよくわかる。
バトラーによるアンチ・オイディプス論。
up!!★ジュディス・バトラー「ダイナミックな複数の結論」(原書2000年、『偶発性・ヘゲモニー・普遍性 新しい対抗政治への対話』所収、竹村和子・村山敏勝訳)、青土社
どのような個々の文化においても自己同一性というのはなく、文化の自律性の名のもとに他の文化とのあいだに垣根をつくっている文化は、たとえそれ以外の場所では起こっていなくても、その境界上では起こっている文化の交錯によって、いくぶん攪乱されているのである。そう、まさにそのとおりで、あらゆる個別的な文化は、境界をこえてべつの文化とつねにすでに交錯しており、この交錯性こそ、個別的な文化という概念には必要不可欠で(またその概念を攪乱するものでも)ある。したがってわたしは(「あらゆる文化は……」と語って)進んでこの公式を普遍化するが、その普遍性が先験的な理由によって保証されているとは、彼(引用者註:ジジェク)と違って思ってはいない。翻訳とか汚染といった事柄は、文化の自律性というプロジェクトの一部として出現してはいるが、翻訳や汚染はどれも、それらが現実にとっている形態を分析するまえに特定できるものではない。事実わたしが抱いている文化人類学に対する懸念は、もしもそういった主張が先験的なレベルでなされうるなら……、その分析は、現在進行中の文化翻訳の実際の読みを、無駄なものにしてしまうだろう。そうなれば、そういった文化翻訳が何なのかを知る必要もなくなってしまう。なぜならわたしたちはすでにそれらを、見せかけのさらに「基盤的レベル」で画定してしまっているからだ。その基盤的レベルを、あらゆる個別的実践の分析をこえて優先させることによって、わたしたちは、あらゆる文化の分析をこえる哲学の……優位地点を確立することになる。わたしが理解するジジェク流の公式化における問題の二点目は、ジジェク流の公式化は、政治課題としての翻訳からその規定力を奪っているということだ。
★ジュディス・バトラー『生のあやうさ−哀悼と暴力の政治学』(原書2004年、本橋哲也訳)、以文社
喪、怖れ、不安、怒り。アメリカ合衆国で私たちは、暴力に囲まれ、暴力を犯し、いまでも犯しつづけ、暴力に苦しみ、暴力を恐れて暮らし、より多くの暴力をたくらんでいる。「テロに対する戦争」という名で無限に戦争をしつづけるという茫漠とした未来の不安におののきながら。暴力が最悪の接触であることは間違いない。それは人が他の人間によって傷つけられやすいことを、もっとも恐ろしいやり方で示すことにほかならないからだ。他人の意志に自分ではどうすることもできずに従わされ、他の人間が思い通りにすることによって自らの生命そのものが抹殺されること。私たちが暴力を犯すとは、他の人間に対して行いを起こすこと、他者を危険にさらすことであり、他者に損害を与え、他人を除去しようとすることだ。ある意味で私たちは皆、このように暴力によって傷つけられる可能性とともに生きている。それが肉体をもった生の一部分である他者に対する可傷性であり、私たちには予測できない、どこかからやってくる突然の呼びかけに対する傷つきやすさである。そして特定の社会的・政治的状況の下では、この可傷性が増幅されるのだ。特に暴力が生の様態になり、自己防衛の手段が限られているような状況においては。このような傷つきやすさに留意すること、それが軍事力に頼らない政治的解決を主張する根拠となりえるし、他方、この可傷性を幻想(体制や組織によって支えられた支配幻想)によって否定することは、戦争をたきつける燃料となりうる。だが私たちは、この傷つきやすさを無視できないだろう。私たちはそれに付き合い、寄り添いさえして、こうした身体的な可傷性、すなわち、私たちが消滅させられたり、他者を喪失したりする状況を念頭に置き続けることで、どんな政治が可能になるかを考え始めるのだ。
★ジュディス・バトラー『自分自身を説明すること−倫理的暴力の批判』(原書2005年、佐藤嘉幸・清水知子訳)、月曜社
たとえ私の身体がどこに向かい、何をしたか、何をしなかったかについて疑う余地のない物語が存在しているとしても、身体的指示対象、つまり私が指摘できる、しかし完全に語ることはできない私の条件がここに存在するのである。物語は、それが指示する身体を捉えることがない。この身体の歴史さえ完全には語ることができない。身体であることは、ある意味で人生の完全な記憶を持つことができないということだ。私がどんな記憶も持つことができない、私の身体の歴史が存在するのである。もしそのとき、語りえないが、自分自身についての物語的説明の身体的条件をなすような身体経験−「《曝され》」という言葉によって示されるもの−の一部がまた存在するとすれば、《曝され》は、自分自身について物語的説明をしようとする際に生まれる困惑の一つを構成することになる。つまり、1−私の特異性を確立する、語りえない《曝され》があり、また、2−私の生の物語に持続的で回帰的な刻印をもたらす原初的関係が存在し、したがって、3−私自身に対する私の部分的不透明性をもたらす歴史が存在する。最後に、4−私が自分について語ることを手助けしてくれるが、私はその作者ではなく、私の特異性の歴史を確立しようとするまさにその瞬間に私を置き換え可能なものにしてしまうような規範が存在する。最後に述べた、言語において[私が]収奪されるという状態は、私が誰かに対して自分を説明するという事実によって強化される。したがって、私についての語りの構造は、5−それが生じる場である呼びかけの構造に取って代わられるのである。
up!!★ジュディス・バトラー「ジェンダーをほどく」(初出2006年、『欲望・暴力のレジーム 揺らぐ表象/格闘する理論』所収、竹村和子訳)、作品社
もしもトランスジェンダーの人々にとって繰り返し喪失しているものの一部が、場所であり、あなたというものであり、呼びかけの可能性であるならば、この喪失は、あるときには怒りに満ち、あるときには致命的なほどの自己叱責となり、あるときには自殺を引き起こすような呼びかけとして再登場することによってのみ、内的に持ちこたえうるのです。いずれにしろ、誰かに聞いてもらいたいと奮闘する「わたし」なるもの、生きるための発話を沈黙させているものに打ち勝とうとする「わたし」なるもののなかに、人は存在しているのです。おそらくこれが、トランスジェンダーの人々に対する暴力について、またクィアな若者やトランスジェンダーの若者の自殺率について考えるときの出発点となるものでしょう。……暴力とは、ジェンダー・トラブルを抱えている人に、外からふるわれるだけでなく、そういった人が自分自身にやむなくふるうものでもあるのです。この点において、ジェンダー横断的な自己同一化は、わたしたちの眼前にある政治課題の一つです。なぜなら、それはプレイにまつわる事柄であるだけでなく……サバイバルにまつわる事柄でもあるからです。
★ジュディス・バトラー+ガヤトリ・C・スピヴァク『国家を歌うのは誰か?−グローバル・ステイトにおける言語・政治・帰属』(原書2007年、竹村和子訳)、岩波書店
パフォーマティヴな矛盾に依拠するような政治的位置はないという見方は捨てて、時の経過のなかで徐々に効果が見えてくる主張や行為としてパフィーマティヴな機能を見ていけば、別の仮説を考えてみることができるのではないでしょうか。それは、変化をもたらすラディカルな政治にはパフォーマティヴな矛盾がつきものだという仮説です。自由の行使や平等の主張を、それらを妨害している権威と関係づけながらおこなえば、自由や平等がその現在の意味づけを超えて動きうること、動くべきだということを示せるでしょう。矛盾に頼ったり、矛盾に晒されたり、矛盾に働きかけるのは、何か新しいものに向かって動いていくためです。それ以外に方法はないように思います。