Gilles Deleuze(1925〜1995)

up!!★ジル・ドゥルーズ『本能と制度』(原書1953年、加賀野井秀一訳注『ドゥルーズ初期−若き哲学者が作った教科書』所収)、夏目書房
人間は本能を持たず、諸制度をつくりあげる。人間は種から脱皮しつつある動物なのである。したがって、本能は動物の緊急事態を表現し、制度は人間の要求を表現していることになる。逼迫した飢餓でも、人間においては、パンを手に入れる要求となるわけだ。結局のところ、本能と制度との問題は、その最も鋭い点において、動物のさまざまな「社会」の内ではなく、動物と人間との関係の内で把握されることになるだろう。人間の諸要求が動物にかかわり、動物を制度の内に統合する場合(トーテミズムや馴致)にも、あるいは、動物の緊急事態が人間に遭遇し、逃げたり攻撃したり、食べ物や庇護を求めたりする場合にも、それは変わらないのである。


★ジル・ドゥルーズ「無人島の原因と理由」(初出1953年、前田英樹訳、『無人島 1953-1968』所収)、河出書房新社
島々の総体には、客観的ないかなる統一もない。無人島では、なおさらだ。おそらく、無人島の土は極度に痩せているかもしれない。無人のその地は、不毛地でありうる。が、そのことは必然ではない。実際の不毛地には人が住まないとしても、それはその土地が、あらゆる生命、草木や獣や人間の生命をもたらす、然るべき条件を与えない限りでのことである。それどころか、無人島に人が住まないということは、状況に、つまり周囲に起因する単なる事実にとどまる。島は、海が取り囲むものであり、人がそこを廻り歩くものである。それは一個の卵に似ている。海の卵、これは球形を成す。……島は不毛地であるというよりは、無人化されたものなのだ。その結果、島はそれ自身のなかに最も生き生きとした資源を持ちうる。最も敏捷な動物たち、最も色鮮やかな植物たち、最も見事な食物、最も活発な未開人、最も貴重な島の果実としての漂流者、最後に、彼を捜索しに束の間やって来る船、そういったものすべてを数え上げても、島は依然として無人島である。この情勢を変えるには、大陸、海の状態、航路の全体にわたる再配分が為されなくてはならないだろう。もう一度言うなら、無人島の本質は、想像的であって現実的ではない、神話的であって地理学的ではない。同時に、無人島の運命は何か可能な神話をもたらす人間の有りかたにかかっている。神話は単なる意思から生まれはしない。また、民衆は彼らの神話をたちまち理解しなくなってしまう。文学が始まるのは、まさにこの時である。


up!!★ジル・ドゥルーズ『差異について』(初出1956年、平井啓之訳・解題)、青土社
出発点とするべきは、収縮そのものであり弛緩がその反転であるような持続である。ベルクソンにおいては、われわれはつねに、真のはじまり、そこから出発すべき那一点、というものを見出そうとするあの配慮に出逢う、−「感情は、それがなぜまったく別なものではなくてそれが現にあるようなものであるかについていかなる根拠もなく、それについて何一つ語り得ないので、感情から出発する代りに、われわれは行動から出発する」。収縮の反転が弛緩であって、弛緩の反転が収縮でないのはどうしてなのか。それは哲学をやるということが、まさに差異からはじめるということであり、また本性の差異は持続であり、物質はその持続の最低の程度にすぎないから、である。差異が真のはじまりである。
引用者註
ベルクソン哲学の復権を目指した小論。
ドゥルーズの大著『差異と反復』『シネマ1*運動イメージ』『シネマ2*時間イメージ』へアプローチする前に読んでおくべきだろう。


★ジル・ドゥルーズ「面と表面」(初出1973年、鈴木創士訳、『無人島 1969-1974』所収)、河出書房新社
テロ理論は紫色だ。テロ理論は、縁、片隅、中間、そして別の場所において、さらに別のものをともなった絵画欲望エクリチュールだ。それは「思考の大いなる恐喝」という呼称のもとに知られた《フラック・フラックス・クラン》という振動の動きであり、その手足ー器官である「概念の不法入居者」だ。その理論は次のように提起される。
 (1) われわれの時代の病気の能動的破壊に結びついた、テロ理論療法の補強なしの構成。霊魂をあの世に導くプシコポンプ、ヒポコンデリーもどき、スキゾ大食症、淋疾精神症、神経切断症、神経類型症、モルテーム、セックス症、幻視家、糞尿緊張症者。そしてわれわれの時代の最悪のもの。鬱病讃美。
 (2) 次のような合言葉とスローガンの生産。
 −《つねにさらなる無意識を、さらにもっと無意識を生産せよ》
 −《解釈すべきものは何もない》
 −《すべてはもちろんうまくいく》
 −《後に警察の定期的監査をともなった、すべてのフランス人に対する滞在許可証および労働許可証の義務》
 −《二つの運動の間では、最も脱領土化されたものは、最も脱領土化されなかったものより優位に立つ》
 −《五十の運動の間では、最も脱領土化されたものは他のものを奪い去る》
 最も脱領土化された運動は狂ったヴェクトルと呼ばれる。それは紫色だ。無意識は紫色であるか、あるいはそうなるだろう。
引用者註
プシコポンプ(psychopompe):ギリシア神話における「霊魂の導き手」。
ヒポコンデリー(hypochondrie):心気症、原語はヒポクラテスの解剖用語。


★ジル・ドゥルーズ「狂人の二つの体制」(初出1975年、小沢秋広訳、『狂人の二つの体制 1975-1982』所収)、河出書房新社
私達が考察するのは、……まったく異なった記号の体制、資本主義についてです。これも非常にうまく機能しているようにみえます。それがうまくいかない理由などありません。資本主義はむしろ先に情念型錯乱と呼ばれたものに対応するでしょう。妄想型の帝国形成において起ることとは反対に、大なり小なりの一まとまりの記号群が線をたどり始め、この線の上ではあらゆることが起るのです。資本ー貨幣の運動、主体を資本と労働のエージェントとすること、これらのエージェントに対する財と支払い手段の分配における不平等。主体に対しては、自分自身に従うだけだから、従えば従うほど自分にだけ従うことになると説明される。資本法則の名において命令主体はつねに服従主体に格下げされる。そしてこの記号体系は帝国的体系とはかなり異なり、周縁の主体を中心に引き戻して遊牧民運動をとどめることで体系の裂け目を繕う点で有利でさえある。たとえば、哲学史において、記号がいつも記号を指示し続けていた帝国的段階から、主体を主体のうえに打ち落として止まない、まさしく情念型の錯乱としての主体性の段階へと、言説を移行させた著名な転回があったのは周知のとおりです。しかし一方でここでもまた、それがうまく機能すればするほど、あらゆる端々からそれは逃れていきます。資本-貨幣によるもろもろの主体形成の線は、分岐、斜線、横断線、周縁的主体性、領土化線等を発してやまず、これらが資本ー貨幣のプランそのものを脅かすのです。内にある遊牧民運動、新しいタイプの脱領土化された流れ、非-意味形成的粒子は、個々の細部を危うくするまでにいたり、全体さえをも揺るがすまでになる。ウォーターゲート事件、世界的インフレーション。


★ジル・ドゥルーズ+クレール・パルネ『対話』(原書1977・1996年、江川隆男・増田靖彦訳)、河出書房新社
概念とはまさに音や色やイメージのようなものであり、重要なのはその強度があなたに相応しいか否か、あなたに通じるか否か、ということなのである。ポップ哲学だ。理解すべき何ものもなければ、解釈すべき何ものもない。私は文体が何であるかを言いたいのだ。文体とは、「彼らには文体がない…」と普段から言われている人たちが所有しているものである。それは意味をもった構造でも、熟慮された組織化でも、自発的なインスピレーションでも、オーケストレーションでも、小さな音楽でもない。それはひとつの作動配列、言表行為の作動配列なのである。ひとつの文体とは、自分自身の言語〔自国語〕において吃るようになることである。これは難しい。なぜなら、そのように吃ることの必要性がなければならないからだ。自らの発話において吃るのではなく、言語活動それ自身で吃るのである。自分自身の言語において外国人のようであること。逃走線を描くこと。私に最も強い印象を与える事例は、カフカ、ベケット、ゲラムシ・ルカ、ゴダールである。


★ジル・ドゥルーズ『シネマ1*運動イメージ』(原書1983年、財津理/齋藤範訳)、法政大学出版局
ひとつの映画作品が一種類のイメージだけで製作されることは決してない。そのようなわけで、わたしたちは〔運動イメージの〕三つの種類の組み合わせをモンタージュと呼ぶ。モンタージュは(そのアスペクトのひとつにおいて)、運動イメージどうしのアジャンスマンであり、したがって、知覚イメージと、感情イメージと、行動イメージとの相互アジャンスマンである。それでもやはり、映画作品が、少なくともそのもっともシンプルな特徴として、つねにひとつのタイプのイメージの優位を提示することに変わりない。その優位にあるタイプにしたがって、感情モンタージュ、知覚モンタージュ、行動モンタージュを語ることができるだろう。グリフィスがモンタージュを創案したとしばしば言われてきたが、正確にはそれは行動モンタージュを創造することによってである。しかし、ドライヤーの『裁かるるジャンヌ』がほとんど感情的でしかない映画作品のケースであるかぎりにおいて、ドライヤーは、他のいくつかの法則によって、感情モンタージュを、さらには感情フレーミングをも創案することになるだろう。おそらくヴェルトフは、本来的に知覚的なモンタージュの創案者であり、この知覚モンタージュを発展させるのは、まさに実験映画全体であろう。空間的に規定された三種類のショット〔plan平面〕を、〔運動イメージの〕三種類の変種に対応させることができる。すなわち、ロング・ショット〔plan d'ensemble総体の平面〕はとりわけ知覚イメージであろう。フル・ショット〔plan moyen中くらいの平面、全身を写すショット〕は行動イメージであろう。クロースアップ〔gros plan大きな平面、顔を写すショット〕は感情イメージであろう。しかし同時に、エイゼンシュテインの指示にしたがえば、それらの運動イメージのそれぞれは、映画作品の全体に対するひとつの視点であり、この全体を把握するひとつの仕方である。それは、クロースアップにおいては感情的なものに生成し、フル・ショットにおいては行動的なものに生成し、ロング・ショットにおいては知覚的なものに生成する。そして、それらショットのそれぞれは、空間的なものであることをやめ、それ自体が、映画作品全体の或る「読み」へと生成するのである。
引用者註
第4章を読めば、ほぼ運動イメージとは何かがわかる。
要するに、カメラで対象物を撮影するショットが、各々、知覚イメージ・行動イメージ・感情イメージに対応する。
古典的映画/モンタージュ論のコードの基本。


up!!★ジル・ドゥルーズ『シネマ2*時間イメージ』(原書1985年、宇野邦一/石原陽一郎/江澤健一郎/大原理志/岡村民夫訳)、法政大学出版局
運動イメージは消えてしまったわけではなく、様々な次元においてたえず成長するイメージの第一の次元としてしか、もはや存在しない。われわれは空間の諸次元について語っているのではない。なぜなら、イメージは深さなしに平らでありうるし、それによって空間を上回るさらに多くの次元や力能を得るかもしれないのだ。われわれはこれらの成長する力能のうち、おおまかに三つを指摘することができる。まず第一に、運動イメージとその感覚運動的記号は(モンタージュに依存しながら)時間の間接的イメージとしか関係しないのだが、純粋な光学的かつ音声的イメージ、その光記号と音記号は、運動を従属させる時間イメージに直接関係するのである。まさにこの反転によって、時間は運動の尺度ではなくなり、運動は時間の遠近法となる。これこそが、モンタージュの新しい発想と新しい形式とともに、まさに時間の映画を作り出す(ウェルズ、レネ)。第二に眼が見者の機能に接近すると同時に、視覚的であるばかりでなく音声的でもあるイメージの諸要素は内的関係の中に入り、それによってイメージ全体が見られるだけでなく、「読まれ」なければならならず、見ることができると同時に、読むことができなければならない。……ここでもまたイメージあるいは描写の、独立と仮定された対象へのあらゆる参照は、すべて消えてしまうわけではなく、今は内的な要素や関係に従属し、このような要素や関係は、今や対象にとってかわろうとし、対象が現れるにつれて、たえずそれを移動させながら、それを消去しようとする。……たとえば小津の作品、ロッセリーニの晩年、ゴダールの中期、ストローブ夫妻において、カメラの固定は、単に運動との二者択一を示すのではない。動いているときでも、……あらゆる場合にカメラは空間の描写を思考の機能に従属させている。単なる主観的なものと客観的なもの、現実的なものと想像的なものの区別ではなく、反対にその識別不可能性がカメラに諸機能の豊かな集合を与え、フレームとリフレーミングの新たな概念をもたらすだろう。……このようなものが、運動の彼方を定義する三重の転換である。イメージは感覚運動的脈絡から解放され、行動イメージであることをやめて、純粋な光学的、音声的(そして触覚的)イメージにならなければならなかった。しかしこれだけでは不十分だった。それがさらに他の力との関係に入り、紋切り型の世界から、それ自身がのがれる必要があった。それは力強く直接的な啓示に、時間イメージの、読解可能なイメージの、思考するイメージの啓示に開かれる必要があった。こうして光記号と音記号は「時間記号」、「読解記号」、「思惟記号」に帰属するのだ。
引用者註
『シネマ1*運動イメージ』を熟読したのち、本書第1章を読めば、時間イメージとは何かがよくわかる。
ショットには、距離だけでなく、角度(ローアングル、フラットアングル、ハイアングル)、パン、トラッキング、ズーム、ドリーショット、ショット・リバース・ショットなどがあり、そうしたショットが相互に関係し各シーンが演出される。それらのシーンの連続がシークエンスであり、そのシークエンスを編集することで映画が完成する。その映画の映像にはもちろん音声がダビングされているので、現代の映画は、光学的、音声的(そして触覚的)イメージとして多様にアジャンスマンされている。
ドゥルーズがいうように、映画を初めとしたメディア文化は「見ることができると同時に、読むことができなければならない」。


★ジル・ドゥルーズ+サミュエル・ベケット『消尽したもの』(原書1992年、宇野邦一・高橋康也訳)、白水社
夜がくる。彼は夢をみるだろう。彼は眠ってしまうと信じるべきだろうか。むしろ眠りは夜を裏切ると述べるブランショを信じよう。なぜなら眠りは、夜が二つの日の間を中断すること、次の日が前の日に継続することを可能にするからだ。人はしばしば、白昼夢や覚めたままみる夢と、睡眠中の夢とを区別することだけで満足する。しかしそれは疲労と休息の問題にすぎない。こうして人は第三のおそらく最も重要な状態をとらえそこなうのだ。それは不眠(これだけが夜にふさわしい)と、不眠の夢(それは消尽にかかわる)である。消尽したもの、それは眼を見開くものである。われわれは眠りながら夢をみていたが、いまは不眠のかたわらで夢をみる。論理的と生理的という二つの消尽が、あるいはカフカが言うように「頭と肺」が、われわれの背後で待ち合わせるのである。


★ジル・ドゥルーズ『批評と臨床』(原書1993年、守中高明・谷昌親・鈴木雅大訳)、河出書房新社
たがいに異質な諸部分の集合としての世界−終わりなきパッチワーク、あるいは乾いた石の数々でできた果てしない壁(セメントづけされた壁や何かパズルの破片といったものなら、一つの全体性を再構成してしまうだろう)。サンプリングとしての世界−サンプル(見本)とは、まさしく、通常のセリーから解放されているような特異性、注目すべき非-全体化可能な諸部分のことである。日々のサンプル……。事例のサンプル、光景あるいは眺め(scenes, showsあるいはsights)のサンプル。実際、サンプルは、あるときは、空間の隔たりによって分離された諸部分の共存に応じたさまざまな事例であり……、またあるときは、時間の隔たりによって分離された運動の諸相の継起に応じたさまざまな眺めである……。この二つのいずれの場合においても、法則となっているのは、断片化の法則である。断片とは粒であり、「顆粒化」である。特異な事例やマイナーな光景を選別することは、どんな集合を考慮することよりも重要である。天上的な、あるいは悪魔的な隠れた背景が姿を現わすのは、断片においてなのである。……ともかく必要なのは、断片、注目すべき部分、事例あるいは眺めが、まさしくエクリチュールのうちに存する一つの特殊な行為から抽出されることだ。


★ジル・ドゥルーズ「内在−ひとつの生……」(初出1995年、小沢秋広訳、『狂人の二つの体制 1983-1995』所収)、河出書房新社
ひとつの生は、潜勢力、特異性、出来事からなる。潜勢的と呼ばれるものは、現実性を欠いたなにかではない。そうではなく、それに固有の現実性を与える平面にそって、現勢化のプロセスにはいっていくものだ。内在的な出来事は、ひとつの事物の状態とひとつの生きられたものの中に現勢化する、つまり事物の状態と生きられたものが内在的な出来事を到来させる。内在面そのものさえ、自分にあてがうひとつの《客体》とひとつの《主体》において現勢化する。しかし、どんなに現勢化から分離し難いとしても、内在面そのものは潜勢的であり、その分、内在面を満たす諸々の出来事も潜勢力となる。内在面が諸々の潜勢的な出来事に十分な現実性を与えるように、諸々の出来事や特異性は、内在面にそれらの潜勢力を与える。出来事が、現勢化されない(不定の)ものと捉えられていても、そこに欠けるものはなにもない。その相伴物たちと関係付けるだけで十分だ。ひとつの超越論的場、ひとつの内在面、ひとつの生、諸々の特異性。ひとつの傷が、事物のひとつの状態とひとつの生きられたものの中に、受肉もしくは現勢化する。しかしこの傷そのものは、わたしたちをひとつの生の中に引きさらっていく内在面のうえにあって、純粋にしてひとつの潜勢的なものである。わたしの傷はわたし以前にも存在していた……高次の現実性としての、傷というもののひとつの超越なのではなく、つねにひとつの中間(場または平面)にある潜勢力としての内在。超越論的場の内在を決定する潜勢的なものたちと、それを現勢化し、超越するものに変えてしまう可能的諸形態の間には、ひとつの大きな差異がある。
引用者註
ドゥルーズが投身自殺する前に公にした最後のテクスト。

Pierre-Felix Guattari(1930〜1992)

Deleuzu/Guattari