★ジャック・デリダ『たわいなさの考古学 コンディヤックを読む』(原書1973年、飯野和夫訳)、人文書院
記号は自由使用可能性(disponibilite)である。ものが知覚されず不在であること(つまり時間)をもとに、記号が、私たちが観念に対して持つ支配力を保証し……ても、記号はまたすぐに、今度は、もろく虚ろに、はかなく無価値になって、観念を失い、観念から離れて道に迷ってしまう。単にもの、意味から、単に指示対象から、離れてしまうばかりではない。その時から、記号は何のためにもならないままであり続ける。何も指示することなく交換される過剰、チップのようなもの、欠如(defaut)の過度の強調であり続ける。……このたわいなさは記号に突然生じるのではない。たわいなさは記号に本来的な始まり(entame)なのである。始原(アルケー)、開始、号令、始動、秩序づけなのである−少なくとも、記号のたわいなさ、自由使用可能性が、それ自体から逸脱しながら、いつかそれ自体で存在し、現れることがありうるのであれば。その逸脱の構造のせいで、起源であること、あるいは起源を持つことが許されないので、たわいなさはあらゆる考古学に挑戦し、言ってみれば考古学にたわいなさを強いるのである。
引用者註
frivoliteは、「たわいなさ」以外に、軽薄さ、くだらなさといった意味がある。
★ジャック・デリダ『エコノミメーシス』(原書1975年、湯浅博雄・小森謙一郎訳)、未來社
この(引用者註:表象)不可能なこと。……それはなにであるか、という問いは、一つのパレルゴンとしてもうすでに、ひとが理性的になるよう導いている[arraisonner]。この問いは一つの枠組みを構築し、その枠のなかに、同化しえない、絶対的に抑圧されている、まったくの他者のエネルギーは捕捉されてしまう。すべて哲学的な問いというものは、こうした他者に関して、もうすでに一種の鎮痛作用をもつパレルゴンを規定している。鎮痛剤[remede paregorique]は言葉によって和らげる。コトバ[verbe]とともに慰め、激励する。その名[paregoriqueという名]が、このことを指し示している。
引用者註
パレルゴン:作品の傍らにあるもの。
★ジャック・デリダ「FORS」(原書1976年、ニコラ・アブラハム/マリア・トローク『狼男の言語標本−埋葬語法の精神分析』所収、港道隆・森茂起・前田悠希・宮川貴美子訳)、法政大学出版局
Wolfmanの埋葬室からして、証人たちの集まりがまるごと召還されることになる(forum)が、証言の一戦略もまたまるごと繰り広げられるのだ。ひとはそこで、絶えず切り結ぶ。話は中断し、他者から言葉を取り返し、無謬の不注意から自白し、突き合わせによって確認し、forum〔公共広場〕を細分化する角のある鋭利な内壁によって傷つく。秘密は話題=局所構造を細分化する。埋葬室の飛び地は、「力動的な無意識」と「取り入れの〈自我〉」との間で、〈自我〉の内部に、〈自我〉の全般的空間の内部に一種の抵抗ポケットを、「人工的無意識」の硬化した膿包を形成する。仕切り壁が内部から内部を切り離す。最も内的なfor〔良心の裁き〕(人工的無意識としての、〈自我〉の義肢としての埋葬室)はhormis〔を除いて〕(excepte, sauf, fors)に、外的for〔公共の裁き〕(〈自我〉)に対する外に(foris)なる。〈自我〉はそれを理解=包摂する(comprendre)ことなく、それについて何も理解しないために内包するのだ。
引用者註
フロイトの「狼男」症例を新解釈したアブラハム/トロークの本への序文。
『フロイト著作集』第9巻(人文書院)の論文「ある幼児期神経症の病歴より」が、「狼男」症例の報告。まずこの論文を読んでからアプローチする方がいい。
★ジャック・デリダ「尖鋭筆鋒の問題」(原書1991年、松本和夫訳、『ニーチェは、今日?』所収)、ちくま学芸文庫
尖鋭筆鋒(引用者註:エクリチュールの問題としての文体)化された拍車〔eperon、突出部〕は、ヴェールを貫き通しますが、たんに物そのものを見たり生み出したりするためにヴェールを引き裂くのではなくて、ヴェールをかけられたもの/ヴェールを外されたものという自体への対置、自体への屈み込む対置とか、現前性における生み出された物の生み出しなりヴェール外し/覆い隠しなりとしての真理とかを解体するのです。それは、ヴェールを、降ろしもせず捲り上げもせずに、その宙づり−判断中止−を脱ー境界(de-limiter)します。脱-境界すること、解体すること、解体されること、それは、ヴェールに関しては、なお、開示する〔ヴェールを外す〕こと、さらには呪物を破壊することに帰着するのではないでしょうか。……ハイデガーの読解は、真理のでっち上げにおいて女性を捉え損ねている際に、立往生しておりました。−しかし、私たちは、立往生の謎から出発したのです。
引用者註
1972年に開かれた討論会での発表。
『尖筆とエクリチュール−ニーチェ・女・真理』(原書1978年、白井健三郎訳)、朝日出版社版もあるが、現在は絶版。
ハイデガーの『ニーチェ』(平凡社ライブラリー、白水社)を読んでからアプローチすると解りやすい。
★ジャック・デリダ『他者の耳−デリダ「ニーチェの耳伝」・自伝・翻訳−』(原書1982年、クロード・レヴェック、C・V・マクドナルド編、浜名優美・庄田常勝訳)、産業図書
ニーチェの言表はナチズムのイデオローグたちの言表とは同じものではない。しかもそれはたんにイデオローグたちの言表がニーチェのそれを、猿真似といっていいくらい粗雑に戯画化しているからというだけではない。しかじかの短いシークエンスを取り出して満足するのではなく、体系のシンタックス全体を、その微妙な接合の仕方、その逆転のパラドックス、等々をそのままにして再構成するなら、「同じ」言表として通用しているものがまさに正反対のことを語っており、その「同じ」言表なるものが模倣している当のものの逆、つまり反動的転倒にほかならぬことが、よくわかるであろう。それはそうであるが、しかしさらにまた、こうした模倣的転倒ならびに倒錯の可能性も説明されねばならない。もし無意識的なプログラムと意図的なプログラムという区別を絶対的な判別基準に仕立て上げることを差し控えるなら……、そしてもし一つのテクストを読むために唯一の意義作用−意識的なものであるにせよないにせよ−を考慮に入れるなどということをもはやしないなら、倒錯的単純化なるものはその可能性の掟を「残存する」テクスト……の構造のうちにもっているはずである。……われわれがなおもナチズムの何たるかを考える術を心得ているとは思わない。この使命は依然としてわれわれの前にとどまっており、そしてニーチェの身体ないし資料体の政治的読解はこの使命の一部をなしているのである。
★ジャック・デリダ『絵葉書I−ソクラテスからフロイトへ、そしてその彼方』(原書1980年、若森栄樹・大西雅一郎訳)、水声社
郵送すること、それは停止、中継ないし中断的遅延、配達人の場、横領=迂回や忘却……の可能性を計算に入れつつ郵送することだ。存在の「運命」あるいは存在の「自己固有化」(Ereignis)を、本質的なやり方で区切り、リズム化するエポケー〔停止、括弧入れ〕とAnsichhalten〔自己のうちに保つこと〕、それは郵便的なるものの場なのだ、まさにその場においてこそ、それ〔郵便的なもの〕は到来し、また生起する=場を持ち……、場を与え、そしてまた到来=生起するがままにしておく。これは重大なことだ、なぜなら、このために、ハイデガーの依然として「派生的な」図式(たぶん)が混乱を来すからだ、それは混乱をもたらす、というのも、技術、ポジション、さらに形而上学でさえもが、不意に現れて偶然であるかのように(いまだ郵便的ではないとされる)存在の「送付」を規定し隠蔽するのではない、そうではなくて、それらは「最初の」送付……にすでに属しているからだ。もし郵便(技術、ポジション、「形而上学」)が「最初の」送付において告げられているなら、もはや、いわゆる形而上学〈そのもの〉は存在せず……、送付〈そのもの〉も存在しない、あるいは宛先=命運化なき複数の送付だけなのだ。というのは、異なったさまざまの時代、停止、規定、要するに存在の全歴史を存在のひとつの宛先=命運化へと整序することは、おそらく前代未聞の郵便的幻想=囮であるからだ。〔単数の〕郵便そのもの、ないし送付そのものはない、数々の郵便と数々の送付だけがある。そしてこの運動は……、郵便的体制のあらゆる差異、突然変異、拍子、構造を、たったひとつの同じ巨大な中央郵便局のなかに埋没させてしまうのを回避させてくれる。要するに……、あると直ちに、差延がある……、そして、中継、遅延、予測、宛先、遠隔通信的な装置、横領=迂回の可能性と、それゆえに横領=迂回の破滅的な必然性等々といった郵便的な配置構成がある。……世界の郵便のこのような(終末論的、黙示録的)歴史に対する欲望は、おそらく、私たちの「往復書簡」の終焉が差し迫っていることを、嘆き悲しむ、とても子どもじみた−そして、なお君にひとつの涙を送るためのひとつの仕方なのだろう。
★ジャック・デリダ『哲学における最近の黙示録的語調について』(原書1983年、白井健三郎訳)、朝日出版社
他者から来ているこの〈きなさい〉は、それ自体すでに一個の物語、一個の朗誦であり、その特異性=単一性(singularite)が絶対的であると同時に絶対的に分割可能なものとしてとどまっている一個の歌でありながら、いかなるメタ-言語学的引用をもこうむるものではありません。それは、出来事の論理、たとえその論理がどんなに新しいものであろうと、またいかなる政策を予言しようと、そのような出来事の論理によって検査されないと同じく、存在論的-神学的-終末論によっても検査されないものであります。その断定的=肯定的な語調において、〈きなさい〉はそれ自体のうちに欲望も、命令も、祈りも、要求も刻印してはいません。もっと正確に言えば、その〈きなさい〉が規定されるにいたるであろうような文法的、言語学的、あるいは意味論的な諸カテゴリーは、〈きなさい〉によって横断されているのです。……〈きなさい〉はあらかじめ規定できる一個の同一性に語りかけるのではありません。それは一個の宿命=限定の同一性からは漂流しえない一個の漂流であります。〈きなさい〉はただ単に漂流できるもの、絶対的に漂流できるものではあるが、しかしそれはただ他者から、一個の起源であるような、あるいは、立証可能な、決定可能な、提示=現前化可能な、我有化可能であるような無から、すでに漂流できるものではなくしかも岸辺なしに到達可能な=接岸可能な(arrivable)無からのみ、漂流できるものであります。
引用者註
「ヨハネ黙示録」第21章第9節は、日本聖書協会から出版されている口語版では「さあ、きなさい、子羊の妻なる花嫁を見せよう」と訳されている。
本訳書は文語訳にしたがい〈きなさい〉が〈来れ〉となっているが、読みやすさのため口語訳に変更した。
★ジャック・デリダ『シボレート−パウル・ツェランのために−』(原書1986年、飯吉光夫・小林康夫・守中高明訳)、岩波書店
日付の消去、無のなか、また同様に環のなかでのその無名-になること、つまり日付のこうした与件は詩のなかにその痕跡を残す。そしてこの痕跡こそが詩なのだ。この痕跡は、単に何かの痕跡に、つまり、かつて生起し、場を持ち、ついで何らかの意味に従って生きられ、そして今や記念されることを要求している非ー痕跡の痕跡に帰されるものではない。確かにこの痕跡はそうしたものでもあるが、しかし何よりもまず、日付としての痕跡、つまり刻印をとどめるために刻印を除去され、残存するために喪のしるしを付されることを運命づけられたものなのである。それは己の秘密を晒け出さねばならず、己の秘密を失う危険を冒して保持しなければならない。それは、読み取り可能性と読み取り不可能性とのあいだの境界線を越えたり戻ったりしつつ混乱させねばならないのだ。読み取り得ぬものは読み取り得ぬものとして読み取り得るものであり、読み取り得る限りにおいて読み取り得ぬものであるということ−ここにこそ、一個の日付を内側から焼き尽くす狂気がある。これこそが日付を灰にゆだねるのであり、これこそが、そもそもの初めから灰を与えるのである。そして、この火葬が行なわれる有限な時間のあいだには、合言葉が交され、伝達が成立し、シボレートが手から手へと、口から耳へと、心から心へと−つねに幾人かの限られた数のあいだで−循環するのだ。
引用者註
シボレート(Schibboleth):合言葉、決まり文句
★ジャック・デリダ『精神について−ハイデッガーと問い』(原書1987年、港道隆訳)、平凡社ライブラリー
『総長就任演説』においては、〔精神化の二重戦略という〕この危険はただ冒されているだけではない。講演のプログラムが悪魔的に見えるとすれば、それは、そこに偶然的なものが何もないにもかかわらず、そのプログラムが最悪のものを、すなわち同時に二つの悪を資本に組み入れているからだ−ナチズムへの支持と、いぜんとして形而上学的な身振りと。この曖昧さは引用符の狡智、ひとが決して適切な尺度を手にすることのない引用符の狡智(常にそれは多すぎるか少なすぎるかだ)の背後で、Geistが常に自らのGeistによって取り憑かれていることにも由来する。言いかえれば一つのespritが、ドイツ語でもフランス語でも、ある幽霊がいつも不意をついて、もう一方の者の腹話術を演じに帰って来るのだ。形而上学は常に帰って来る〔revient〕。
引用者註
ガイスト(Geist):「精神、本質」といった意味のドイツ語だが、英語でいうGhost、つまり「幽霊、亡霊」といった意味も兼ね備えている。
★ジャック・デリダ『ユリシーズ グラモフォン−ジョイスに寄せるふたこと』(原書1987年、合田正人/中真生訳)、法政大学出版局
『ユリシーズ』について言えることはすべて、『ユリシーズ』のなかであらかじめ予告されているのであって、すでに見たように、そこには、学者的能力をめぐる場面やメタ言説なるものの脳天気な無邪気さも含まれている。われわれはこうした網に捕らわれているのだ。行動の主導権を握るためのちょっとした身振りでさえ、そのすべてが、潜在性を過剰に秘めたテクストのうちですでに予告されているのであって、このテクストは、しかるべき時がくるなら、みなさんが、言語の、筆記の、知識の、さらには叙述の網状組織に囚われていることを、みなさんに思い起こさせることだろう。……そう、すべては『ユリシーズ』と同時にすでにわれわれに起こったのであり、あらかじめジョイスと署名されているのである。
★ジャック・デリダ『火ここになき灰』(原書1987年、梅木達郎訳)、松籟社
けれども言葉の骨壺はじつに壊れやすいのだ。すぐにぼろぼろに砕け落ちてしまい、息を吹きかけるやいなや、灰そのものである無数の言葉[=言葉の埃]となる。おまえが言葉の骨壺を紙に託せたとしても、それはおまえをいっそう燃え立たせるためなのだ、……それは彼が夢みたような墓碑ではない、つまり、人も言う喪の作業をたっぷり時間をかけて遂行するためにある墓標ではないのだ。この文の中に見えるのは、墓碑の墓碑だ。それは不可能な墓の記念碑なのだ−それは禁じられた墓で、ちょうど遺骸を納めぬ墓の記憶のようなものだ。そこでは忍耐強い喪の作業は拒否されている。……喪の殿下のために働くことなど、どうして受け入れられよう?
★ジャック・デリダ『他者の言語−デリダの日本講演』(原書1989年、高橋允昭編訳)、法政大学出版局
私が書くのは誘惑するためです。誘惑の論理はたいへん逆説的で、たいへん複雑です。逆説的な誘惑、致命的な誘惑、あらゆる種類の誘惑があります。誘惑するとは、まず第一に、道から逸らせる、という意味であり、つまり、連れて行く……といっても悪の道へではなく、他の道へ連れていくということです。だから、脱構築も散種も誘惑なのです。それは、道を踏み外させる〔devoyer〕仕方です。痕跡の開路〔frayage〕とは、路をつける仕方のことです。開路とは、道を切り開いていくということです。哲学の西欧的な高速道路とは違う道を切り開こうとするならば、誘惑しなければなりません。つまりフランス語の言い回しで言えば、tirer des bretelles〔……高速道路の分岐点で出口を探す〕しなければなりません。……高速道路の分岐点、それは高速道路からの出口です。誘惑するとは、私にとって、出口を、高速道路からの出口を探すことです。……私のエクリチュール、私の生において出口を探すことです。
up!!★ジャック・デリダ『有限責任会社』(原書1990年、高橋哲哉/増田一夫/宮崎裕助訳)、法政大学出版局
私は要するに、次のことを示唆したいのである。すなわち、羊飼いがもはやその羊の数を数えられなくなるためには、スピ−チ・アクトの羊小屋のなかに、「決定不可能性」型(パルマコン、ギフト、代補、イメン)の、あるいは「無意識」型(無意識的な快楽は、苦痛として体験されうる、と『快楽原則の彼岸』は言っている)の、あるいは「一次マゾヒズム」型の、等々といった何頭かの狼を紹じ入れるだけで十分だ、ということである。われわれはもはや、(明らかに意識的自我と同一視された)「話し手」や「聞き手」の同一性がどこにあるのか、一つの意図=志向の同一性(欲望か非-欲望か、愛か嫌悪か、快楽か苦痛か)、あるいは一つの効果の同一性(快楽か非-快楽か、利得か損失か、等々)がどこにあるのか、を知らないのだ。これが、あらゆるスピーチ・アクトの「起源」に、(多かれ少なかれ)匿名の有限責任会社=集団、大いなる寄生=雑音介入に開かれた意味作用の多数の−「主体」ではないにせよ−審級、言い換えれば、話し手と聞き手(言語行為論の最終審級)の「意識的自我」がそのものとして体内化しえず、実のところ、あらゆる手をつくして排除しようとしているすべての現象が存在する、もう一つの理由である。決してその排除に成功することなく−というのは、「精神分析」の意味での体内化は、〈やむをえず=主体〔の身体〕の防衛のために〉〔au corps defendant du sujet〕、「自らの内に」それが排除する当のものの場所をつくるはずだからである。現状における言語行為論は、すべての言語に本質的効果を及ぼしているはずのこのような体内化を、いかにして説明しうるのだろうか?
引用者註
スピーチ・アクト(speech act):言語学者ジョン・L・オースティンの用語で、言葉を発すること自体がある行為を行うとするもの。一般的に「言語行為」と訳される。
ちなみに「発話行為」は“locutionary act”、「発話内行為」は“illocutionary act”の訳語。
エミール・バンヴェニストの『一般言語学の諸問題』(みすず書房)を参考にすれば、デリダ/サール論争の理解がより深まるだろう。
★ジャック・デリダ『ヘーゲルの時代』(原書1990年、白井健三郎訳)、国文社
〈ウニヴェルシタス〉は、国家のこの存在的-かつ自己ーエンチロペディア的円環なのである。「市民社会」において国家権力を自在にする勢力がどのような勢力であろうと、あらゆる大学は大学としてのかぎりにおいて(「左翼」のものであろうと「右翼」のものであろうと)、この手本に依存している。あらゆる〈大学〉にはヘーゲルの時代がある。この手本(定義上普遍的であろうとする手本)は、つねに特殊な国家(プロシア国家、ナポレオン一世と三世との国家、ブルジョア共和制の国家、ナチの国家、ファシストの国家、社会-民主主義国家、人民主義的あるいは社会主義的民主主義国家)の諸勢力との交渉と妥協しているがゆえに、この手本のもつ諸概念、諸手段、諸実践の脱構築化によって直接的にこの手本を攻撃してそれを消失させようと試みても、同じようにその手本に満足することのできるような他の勢力が直接的に復帰するおそれが生じてきてしまうのである。ウニヴェルシタスという他者に直接的に地位をゆだねようとのぞむことは、国家と大学とを奪取しようとするにきわめて近い、また奪取することをも辞さないきわめて決然とした諸勢力の温床をつくることであるかもしれない。そこから、大学の地盤のもっとも強力な基礎を攻撃するときにおいてさえ大学の地盤を放棄すべきではないという必然性が、脱構築化にとって生ずる。そこから、その地盤を経験主義に、したがっていかなる勢力にも引き渡すべきではない必然性が生ずる。そこから、われわれの結合の政治的必然性が生ずる。この必然性はたえず再評価すべき必然性である。
引用者註
ウニヴェルシタス(Universitas)というラテン語は、フランス語のUniversiteの語源。
教師と学生のギルド(組合)といったニュアンスがある。
★ジャック・デリダ『盲者の記憶 自画像およびその他の廃墟』(原書1990年、鵜飼哲訳)、みすず書房
涙が目に到来するものであり、そしてそのとき視界を覆いうるものであるならば、涙こそがおそらく、この経験の流れのさなかで、この水流のなかで、目というもののある本質を、いずれにせよ人間の目の、聖なる寓意の人間-神学的空間において理解された目の本質を啓示するのである。根底においては、目の根底では、目の用途は見ることではなく泣くことだということになるだろう。眼差しがそれを覆蔵している忘却の外へと涙が迸らせるもの、それこそはアレーテイアに、このようにして涙がその至上の使命を啓示する目の真理にほかならないことになるだろう。視覚よりも哀願を主眼にすること、眼差しよりも祈りを、愛を、喜悦を、悲哀を差し向けること。神による照明である以前に、啓示とは、「喜びの涙」の契機である。
引用者註
アレーテイア(Aleetheia):ギリシア語で「真理」だが、覆われたり隠されていない状態という意味合いがある。
★ジャック・デリダ『他の岬 ヨーロッパと民主主義』(原書1991年、高橋哲哉・鵜飼哲訳)、みすず書房
ヨーロッパの記憶の呼びかけに応答し、ヨーロッパの名のもとに約束されたものを呼び戻し、ヨーロッパを再同定=再同一化するという義務は、この名のもとに一般に了解されているものとは共通の尺度をもたない=比べものにならない〔sans
commune mesure〕けれども、他のいかなる義務もおそらくそれを沈黙裡に前提していることが示されるような義務である。この義務はまた、岸辺でもあるゆえにおのれを分割していく岬の方から、ヨーロッパを開くように命じ、ヨーロッパではないもの、ヨーロッパではけっしてなかったもの、ヨーロッパではけっしてないだだろうものへと向かって、ヨーロッパを開くよう命じる。この同じ義務がまた、異邦人を統合するためばかりでなく、その他性を承認し受け入れるためにも迎え入れることを命じる。これらは今日、われわれのヨーロッパ意識、民族=国民意識を分割している二つの歓待性〔hospitalite〕の概念である。……この同じ義務が、民主主義の理念のヨーロッパ的な、もっぱら〔uniquement〕ヨーロッパ的な遺産を引き受けるよう命じるとともに、民主主義の理念が国際法のそれと同様けっして所与のものではないこと、その身分はカント的意味での統制的理念でさえなく、むしろこれから思考さるべき、来るべき何ものかであること、つまり、確実に明日には到来するだろうもの、未来の(民族=国民的、間民族=国民的、国家的あるいは超-国家的)民主主義ではなく、約束の構造を−したがって、今ここで将来=来るべきもの〔avenir〕を担っているものの記憶という構造をもつはずの民主主義であること、これらのことを承認するよう命じる。この同じ義務が、差異、固有言語、少数派、特異性を尊重するとともに、形式的な法の普遍性、翻訳の欲望、一致と一義性、多数性の法則、〈人種主義やナショナリズムや異邦人嫌悪〉への反対をも尊重することを命じる。……こうした二重の義務の例はいくらでも増やすことができよう。
★ジャック・デリダ『シニェポンジュ』(原書1988年、梶田裕訳)、法政大学出版局
その偶然的性格において、固有名はいかなる意味も持たず、直接的な指向対象の内で汲み尽くされるのでなければならないだろう。ところが、その(それぞれの場合において常に別[他]のものであるという)恣意性の幸か不幸か、固有名の言語の内への書き込みは常に、意味を持つことの潜在的可能性でもって固有名を触発[変様]する。そしてそれが意味作用を行うようになる以上、もはや固有のもの=清潔なものではなくなる潜在的可能性でもって(「無意味なるもの」の「衛生的なため息」)。固有名は、有意味的なものがそれに再度入り込むと、再び意味するようになり、その射程は限定される。それは、偶然の諸効果を統御する一般科学の枠組みのなかに帰還し始める。それは固有名でさえ翻訳することが可能になり始める瞬間である。
★ジャック・デリダ「ネルソン・マンデラの感嘆 あるいは反省=反射の法則」(『この男 この国−ネルソン・マンデラに捧げられた14のオマージュ』所収、増田一夫訳)、ユニテ
模範的な証人とは、しばしば法と諸々の法とを、すなわち良心に直接語りかける法と(歴史的な、民族的な、制定された)実定法の尊重とを区別する者である。良心は単に記憶なのではなく、約束でもあるのだ。模範的な証人たち、すなわち彼らが反射している法を考えられるようにしてくれる者たち、その彼らは、或る一定の状況においては法を尊重しない者たちである。時に彼らは、良心と法とのあいだで引き裂かれ、時には自分の国の法廷において有罪宣告を受けてしまう。しかもそういった者たちはいかなる国にも存在するのであって、そのことはまさに、法の出現と定式化の場所とは法にとって故郷喪失の最初の場所でもあることを立証しているのである。
引用者註
実定法とは、特定の時代や社会において成立した法のこと。
★ジャック・デリダ『名を救う−否定神学をめぐる複数の声』(原書1993年、小林康夫・西山雄二訳)、未來社
他者−それは不可能なものである−に随従することは結局、他者の方に向かっていきながら自分を引き渡すこと、敷居を通過することなく他者に到来すること、他者を接近不可能なままにしておく不可視性を尊重し、さらにはこれを愛することである。それはつまり、武器を引き渡すこと=降伏すること[rendre les armes]である。……そして、他者をあるがままにしておく、否定の道を通過した後の嫉妬のない愛が。私があまり自由自在に解釈を加えないとすれば、否定の道はすべてを放棄した状態、禁欲、一時的な無化の運動ないしは契機をたんに構成するだけではない。(愛された)他者が他者であり続けるために、すべてを放棄した状態は作用し続け(それゆえ営為を放棄し)なければならない。
★ジャック・デリダ『コーラ−プラトンの場』(原書1993年、守中高明訳)、未來社
原理的な対立措定の数々によって事を処理し、一つの正常なカップルを考慮に入れるのと同様にして起源を考慮に入れる、そんな哲学の確信に満ちた言説の手前まで立ち戻ろう。われわれは、そのような確信をわれわれから奪い取り、同時に、不純で、危うく、私生児的で、雑種交配的な哲学的言説をわれわれに要求してくる、そんな一つの前−起源のほうへ立ち戻らねばならないのである。これらの特徴は否定的なものではない。それらは、哲学に対して単純に下位にあるかも知れない何かある言説の信用を失わせるものではない。というのも、その言説がなるほど真実[vrai]ではなく、ただ単にいかにもありそうな[vraisemblable]ものであるとしても、その言説はそれでもやはり必然性に関して必然的なることを告げているからである。……この必然性(コーラとはその異名[=上につけられた名]である)は、あまりに処女的であるがゆえにもはや処女の形象を持ちさえしないのだ。
引用者註
コーラ(chora)とは、「場、場所、用地」という意味のギリシア語。
その本質を表現するイメージには「母、乳母、受容体、刻印台」などがある。
デリダは、哲学に還元不可能な「場」としてコーラを読解した。
★ジャック・デリダ『マルクスの亡霊たち−負債状況=国家、喪の作業、新しいインターナショナル』(原書1993年、増田一夫訳・解説)、藤原書店
たとえ……『資本論』が悪魔祓いの大いなる舞台から、厄祓いの競り上がりから始まるにせよ、その批判の段階はいささかも破壊されないだろうし、その権威は失墜しないだろう。少なくとも、その出来事とその創設的な性格のすべてを無化することはないだろう。というのも、われわれはここで、思考なるものが厄祓いの欲動をけっして払拭できないと踏んでいるからである。むしろ思考は、そうした欲動から生まれると言えるだろう。誓うこと、あるいは厄祓い=共謀すること[conjurer]、それは思考にとって限界であるのと同じぐらい、チャンスであり、運命ではないのだろうか。その有限性の贈与ではないのだろうか。複数の厄祓いから選択する以外に、思考に選択があるというのだろうか。問いそのもの、しかもあらゆる問いのなかで最も存在論的で、最も批判的で、最もきわどい問い、そのような問いもまだみずからを護っているということをわれわれは知っている。
★ジャック・デリダ『友愛のポリティックス 1』(原書1994年、鵜飼哲・大西雅一郎・松葉祥一訳)、みすず書房
「善き友愛」は、不均衡を前提とする。それは、相互性ないし平等性のある種の切断を、君と私のあいだのあらゆる融合ないし混同の中断を要請する。同時にそれが意味しているのは、愛というものから−たとえ自己愛であろうと−縁を切るということである。この「善き友愛」を定義している数行が、これらの分割線を示している。「善き友愛」は、友愛という同じ名のもとに認知していると人が信じて来たものから逃れることによってのみ、悪しき友愛から区別されるのである。まるでそこで問題になっているのが単なる同音異義語であるかのように。「善き友愛」は不均衡から生まれる。つまり、人が自己自身よりも他者を評価したり尊敬したり(achtet)するときに生まれるのである。……「善き友愛」がわれわれに命じるのは、「賢明に」、「思慮深く」(weislich)、君と私のさまざまな独異性のあいだにいかなる混同、いかなる交換(Verwechslung)をも差し控えるということである。ここにこそ、来るべき思考者たちの共同体なき共同体が告げられているのだ。
引用者註
ナンシーの『無為の共同体』とブランショの『明かしえぬ共同体』なども参考にすればより理解が深まるだろう。
★ジャック・デリダ「『フロイトに公正であること』」(原書1996年、『精神分析の抵抗−フロイト、ラカン、フーコー』所収、石田英敬訳)、青土社
第一に、問題なのは、行動や、観念あるいはイデオロギーを分析することではなく、そのなかで、存在の思考が、「諸々の実践」、「諸々の自己の実践」と交錯するそれら諸々の問題化を分析することであり、それらを通してそれらの問題化が形成される「諸々の自己の実践の系譜」を分析することなのである。反省的な用心深さと自らの厳密な固有性において自らを思考しようとする関心をもつことで、このような分析はしたがって自分自身の問題化を問題化することを命ずる。このような問題化を(自分自身をも)問わなければならない。それが方法的に要求する、同じ考古学的かつ系譜学的な関心をもって、自らを問わねばならないのだ。
引用者註
ミシェル・フーコー『狂気の歴史』刊行30周年記念シンポジウムにおける講演
★ジャック・デリダ『法の力』(原書1994年、堅田研一訳)、法政大学出版局
法/権利は本質的に脱構築可能である。法/権利が基礎づけされているから、つまり解釈し変革することの可能なさまざまなテクスト層をもとにして構築されているからという理由で……。さもなければ、法/権利の最後の基礎が定義によって基礎づけされていないという理由で。法/権利が脱構築可能であるということは、不幸なことではない。そもそも政治が歴史的進歩をもたらすことのできるチャンスはそこにあるとみることさえできる。しかし、議論していただきたいと私の思うバラドクスは次のとおりである。すなわち、法/権利の、または−こう言ってよければ−法/権利としての正義の、この脱構築可能な構造こそが、脱構築の可能性の保証者にもなっている。正義それ自体はというと、もしそのようなものが現実に存在するならば、法/権利の外または法/権利のかなたにあり、そのために脱構築しえない。脱構築そのものについても、もしそのようなものが現実に存在するならば、これと同じく脱構築しえない。脱構築は正義である。
★ジャック・デリダ『ジャック・デリダのモスクワ』(原書1995年、上田知則訳)、夏目書房
私にとっての仕事を一般的な表現で定義づけなければならないとするなら、私は経済的なメタファーを用いてこう言うでしょう。私たちは可能な限り上手に、最も豊かな特有語法の最大値を翻訳しなければならない、と。これが、私にとって最良の仕事と思えるものを定式化する唯一の方法です。最良の仕事、それはつまり、ある言語でかかれた最も翻訳不可能な詩を、別の言語へと翻訳することなのです。もちろん、これは不可能な仕事です。困難という以上の仕事です。ですが、私はそれを仕事として、こう規定することにいたします。特有語法と翻訳をともに維持すること。翻訳の透明さを維持すること。これは不可能であり、その言い方自体が矛盾しているように見えます。しかし、実はそうではないのです。何故なら、ある特有語法、即ち、言語の中で言われたり、言われなかったりする何か、そうした特有語法は、単なる自己閉塞的な、不透明なものではないからです。……特有語法の最たるものの中にも、翻訳されることを要請する何かが、つまり普遍的なもの、普遍性といったものに属する何かが既に存在しています。……詩は、翻訳されることを要求し、国境を越えることを望む特有語法であるという点において、既にひとつの調停サインと言えるわけです。したがって、自らに固有の言語で語ることは翻訳を締め出そうとすることではありませんし、ましてや翻訳を禁じようとすることでは更々ありません。それは逆に、翻訳への訴えなのです。
★ジャック・デリダ『アポリア 死す−「真理の諸限界」を[で/相]待−機する』(原書1996年、港道隆訳)、人文書院
もし、現存在の最も固有な可能性である死が、現存在の不可能性の可能性であるなら、死は最も非固有の(impropre)、最も脱−固有化する(ex-propriant)、最も非本来的な可能性になる。それゆえ、現存在に固有なるものは、その可能性の最も根源的な内側から、最も非固有なるものによって汚染され、寄生され、分割されていることが判明する。なるほどハイデッガーは、非本来性は、外からくる事故ではなく、本来的な実存を不意に襲う罪や悪ではないということを想起させている。まさにそこで彼は、Verfallen[頽落]を原罪から、あらゆる神学と同じくあらゆる道徳からも引き離すと、少なくとも主張している。しかし、本来的なものと非本来的なものとのこの区別を、それと同様に、固有に言われた[=厳密な意味での(proprement dit)]死ぬことと滅ぶ[=終焉する]ことと死亡することがそれである終わることの様々な形態の区別を、彼は本質的に必要としているのだ。
引用者註
ハイデガーは『存在と時間』において、「終わる」(Enden)の3つの様態を提示している。
すなわち「滅ぶ」(Verenden)、「死亡する」(Ableben)、「死ぬ」(Sterben)である。
しかしこの区別は「本来性」と「非本来性」の対概念において実行されえないと、デリダは匂わせている。
★ジャック・デリダ+ベルナール・スティグレール『テレビのエコーグラフィー デリダ〈哲学〉を語る』(原書1996年、原宏之訳)、NTT出版
「自分の時代を考える」哲学者は、今日ではなかんずくこの仮想的な時間のさまざまな含意やさまざまな帰結に注意深くなければならない。この仮想的な時間の技術的な活用がもたらす新奇さや、さらには未曾有のものがかくも古い諸々の可能性から蘇らせるものに、注意深くなければならない。……いまのメディア状況でのリズムの違いは、ある種の知識人(必要な分析のために少しだけ多くの時間を必要とし、彼らに課せられた発言の諸条件に見合ったかたちで物事の複雑さを見ることを受け入れない者たち)を沈黙に追い込み得るものであるし、彼らを黙らせたり、彼らの声を別の者たちの騒々しい声で覆い隠してしまったりするのである……。この他なる時間、つまりメディアの時間は、発言と意見表明の他なる配分、他なる空間やリズム、中継、形式を生じさせることを強調しておきたい。
★ジャック・デリダ『たった一つの、私のものではない言葉−他者の単一言語使用』(原書1996年、守中高明訳)、岩波書店
いわゆる母語とは、決して純粋に自然なものではないし、固有のものでも住みやすいものでもない。住むこと−そこにあるのは、かなり人を途方に暮れさせる[deroutante]両義的な一つの価値である。すなわち、人はみずからが住む[habiter]と呼ぶことに慣れている[habitue]ものには、決して住むことはないのである。この追放とこのノスタルジーの差異なしには、あり得べき住居も存在しない。確かにそうだ。それはあまりに周知のことではある。だが、だからといってすべての追放が両義的なものだということにはならない。この岸辺[rive]あるいはこの共通の漂流[derivation]から出発して、そう、そこから出発して、すべての国外追放はそれぞれ特異なものであり続けるのである。というのも、この事実には一つの襞がついているからだ。言語−つねに他者の−における、そして同時にあらゆる文化における本質的疎外という、このア・プリオリに普遍的な事実には。この必然性こそが、ここで再-刻印され、したがってもう一度しるしづけられ明らかにされているわけである−つねにもう一度はじめて、或る比類のない地勢の中で。いわゆる歴史的で特異な−特有言語的なと人は言うだろう−一つの状況が、この必然性を、それ自体に再び結びつけながら、決定づけかつ現象化させているのである。
★ジャック・デリダ「脱構築とプラグマティズムについての考察」(原書1996年、シャンタル・ムフ編『脱構築とプラグマティズム 来るべき民主主義』所収、青木隆嘉訳)、法政大学出版局
私の言う「メシア性」の意味についてここで少し説明しておく必要があります。これは安易にユダヤ・キリスト教的またはイスラム的な言葉に翻訳できるようなメシアニズムの問題ではありません。むしろあらゆる言語に認められるメシア的構造のことなのです。語ることと行為とが同時に起こる約束という次元を含んでいない言葉はありません。約束では口を開けた瞬間にもう約束したことになります。「真理があるとは信じない」とか何であれ、口を開いた瞬間に、「私を信じてください」が働いています。たとえ嘘をつくときでも、特に私が嘘をつくときには、「私を信じてください」が働いています。この「私は真実を語っていることを約束します」が、メシア的なアプリオリなのです。たとえ守られなくても、たとえ守られえないことがわかっていても、なされるのが約束であり、約束であるかぎりメシア的なものであります。この観点からみると、解放というモチーフやメシア的なものを放棄した場合に、どうして倫理の問題を立てることができるのか私にはわかりません。解放は今日では再び大きな問題になっており、解放という大きな言説についてアイロニカルである人々は−その人が脱構築論者であろうとなかろうと−許せないと言わずにおれません。そういう態度に触れるといつも私は苦い思いをするとともに苛立ってしまいます。私にはこの言説を放棄する気はありません。
★ジャック・デリダ『アデュー−エマニュエル・レヴィナスへ』(原書1997年、藤本一勇訳)、岩波書店
レヴィナスの思考全体は、最初から最後まで、死についての省察だった。しかもその省察たるや、プラトンからヘーゲル、ハイデガーに至る、死の配慮(epimeleia
thanatou〔死の練習〕、Sein zum Tode〔死に属した存在〕)でもあった哲学を、何よりもまず死の配慮であった哲学の全体を、横領し〔方向転換させ〕、当惑させ〔進路を踏み外させ〕、我を忘れさせる〔自己の外に置く〕ような省察であった。レヴィナスがア-デューの思考を再発明するとき、私たちがこの言葉で指摘したことすべてが思考されているのはもちろんだが、しかし、その際に彼は、哲学の伝統に反しながらも、あるいはその伝統から離れながらも、死に関して教えるべき事柄から離れることはない。その最初のというわけではないが、格別の例が、「死と時間」に関する講義のうちに、とりわけ「志向的ではない意識」に関する一九八三年の論考のうちに見られる。ア-デューが、意味の無限さによる余剰、無限な〈さらなる意味〉[le
plus-de-sens a l'infini〔無限な〈もはや意味なし〉〕]の証言なのは確かである。しかしそれは、こう言えるならば、死の刻における証言である。しかもその死は、もはや存在と無の二者択一に則って接近してはならない死である。そのとき、まさにこの死の刻において、別れの挨拶あるいは呼びかけが、ア-デューと言われるのである。
★ジャック・デリダ『歓待について−パリのゼミナールの記録−』(原書1997年、廣瀬浩司訳)、産業図書
現在では、原則として不可侵であるはずの私の「我が家」は、電話回線だけではなく、電子メール、ファックス、そしてインターネットへのアクセスなどによっても構成され、それもますます本質的かつ内的に構成されるようになっています。だとすれば、国家の介入とは、不可侵なものを侵犯することになるでしょう。不可侵なものの免疫性が歓待の条件であることは変わりがないというのに。……こうした科学技術的な可能性はすべて「我が家」の内面性を脅かし……、さらには自己と自己性(ipselite)の保全をも脅かします。この科学技術的な可能性は、固有なもの(propre)の固有な領土及び私的所有権に対して重くのしかかる脅威として受けとめられているのです。これが、浄化を求めるすべての反動やルサンチマンの源にあることは明らかです。「我が家」が侵犯されるところではどこでも、いずれにせよ侵犯が侵犯として受け取られるところではどこでも、私有化を求める反動、あるいは家族主義的な反動さえも予想されます。さらに範囲が広がって、反動は民族中心的か国家主義的なものとなり、潜在的には外国人嫌悪(xenophobe)となるわけです。
★ジョン・D. カプート編『デリダとの対話−脱構築入門』(原書1998年、高橋透/黒田晴之/衣笠正晃/胡屋武志訳)、法政大学出版局
脱構築はハイデガーに多くを負っています。これはわたしがいまここで取り上げることのできない複雑な問題です。けれども、わたしがハイデガーに向けて繰り返しおこなっている批判もしくは脱構築的な問いのひとつは、ハイデガーが、Versammlung取り集めること(gathering)と呼んでいるもの−この取り集めることはいつも、解離よりも強力なのですが−に認めている特権に関係しています。わたしは、まさに正反対のことを主張したいと思います。もしなんらかの特権を、取り集めることに認めて解離することには認めないとしたら、他者のための、他者の徹底的な他者性、他者の徹底的な特異性のための余地は残されなくなってしまいます。わたしはそういった観点から、分離、解離は社会や共同体への障害物なのでなく、条件であると考えていています。……解離、分離は他者へのわたしの関係の条件なのです。わたしは分離や解離があるかぎりでしか、他者に語りかけることができません。したがってわたしは、他者に取って代わることも、あるいはそのまた逆もできないのです。ブランショやレヴィナスのような、フランス語圏の哲学者たちの何人かが、「関係なき関係(rapport sans rapport)」と呼ぶものはこれなのです。他者へのわたしの関係の構造は「関係なき関係」なのです。それは他者が絶対的に超越的なままでいる関係なのです。
引用者註
「分離、解離」は三木清の哲学にもない視点だと思う。
★ジャック・デリダ『滞留』(原書1998年、湯浅博雄監訳、郷原佳以・坂本浩也・西山達也・安原伸一朗訳)、未來社
私たちが問題にしようとしている滞留態[demeurance]は、永遠が永続するように残るのではありません。それは時間そのものなのです。死としての不死性という、哲学的でも宗教的でもないこの経験、それは孤独を断ち切ることなしに、恍惚そのものにおいて与えるのです。つまり、すべての死すべき者との、すべての苦しむ人間との、共苦[compassion]を与えます。そして、今度は不死でもなく−永遠でもないという幸福を与えます。この瞬間に、死の不死性における歓喜と軽さが、共苦における幸福が、不死でもなく−永遠でもないという幸福における有限性の分かちあいが、有限な諸存在との友愛がありうるのです。……苦しんでいる人類に対する、したがって死の受苦に対する共苦、これは絆なき絆であり、社会的な絆の結びつきをはずし、調子を乱すことなのです。社会的な絆は、実は、死と死の条件、すなわち死すべき存在の条件にしか結ばれていません。
★ジャック・デリダ「正義と赦し」(原書1999年、『言葉にのって』所収、林好雄・森本和夫・本間邦雄訳)、ちくま学芸文庫
私には、他の個人の名において、つまり犠牲者ないしは犯罪者の名において、赦しを求めたり、あるいは赦しを与えたりする権利はありません。このような独異性が赦しの中心にあります。しかしながら同時に、赦しのシーンには、必ず証言があり、生き延びの事実があり、心的外傷の経験や暴力の経験を超えてひろがる時間の流れがあります。そしてすでに、そのような経験の独異性の中に、加害者と被害者が対面する独異性の中に、第三者の立ち会いがあり、何か共同体のようなものが告げられています。そこから、私たちが打ち明けねばならない当惑と、そして矛盾がでてきます。すなわち、赦しはひとつの対面の経験、《私》と《きみ》の経験であるのに、同時にすでに、共同体、世代、証言といったものがあるのです。赦しが与えられるにせよ与えられないにせよ、何かしら言述がある以上、共同体の関与が、したがって、ある集団の関与があることになります。
★ジャック・デリダ『触覚、−ジャン=リュック・ナンシーに触れる』(原書2000年、松葉祥一・榊原達哉ほか訳)、青土社
私が君に語るとき、私は君に触れているのであり、私が君の言葉を聴くときには、君は私に触れているのである。電話によってであれ、電話での声の抑揚の記憶によってであれ、手紙あるいはEメールによってであれ、どれほど遠くからそれが私のもとに到着するとしても。しかし、もちろん、私が君によってこのように触れられるためには、私が私に触れることができるのでなければならない。「自らにおいて君に触れる(se toucher toi)」ことにおいては、「自らにおいて(se)」が君(toi)と同様に不可欠なものである。自らに触れることができない存在であれば、折り目を絶対的に開くものに、すなわちまったき他者として私の心臓によそ者として住みついているまったき他者に、自らを折り曲げる〔服従する〕ことはありえないだろう。ここでは、いかなる人間学的限界も、一方であらゆる「動物的」もしくは「神的」な生にとって価値があるはずであり、他方でそれゆえ、生物一般の生を、この〈自らにおいて-君に-触れる〉の可能性にかんする派生概念とするはずだろう(ここで、ナンシーがこの点で私に同意するかどうか、もはや私にはわからない)。
思考に反して。思考は自らに反して、自分が守る身体に反してしか思考しない、と言えるかもしれない。思考が考えるのは、他者の釣り合いを取るための重りが、思考が考え始めるのに十分な重さがある場合だけである。すなわち、思考に反して、思考が自らの好みに反して触れ、触れさせるときである。したがって、思考がそれ自体によって再び考えることはけっしてなく、考え始めたことはけっしてなかっただろう。これが思考について考え、計量について計量しなければならないことである。必要なこと、言いかえれば自己固有化不可能なもののなかで、したがって触知可能なものそのものの触れえないもののなかで、反してに耐えられること。ここでわれわれが触覚と呼んでいるもののなかで。それは、「きわめて厳密に言えば」、われわれが先に述べた、最上級の厳密さである。
引用者註
デリダによる(1991年、他者の心臓移植を受けた哲学者)ナンシー論。
フッサールの『イデーンU』やメルロ=ポンティの『知覚の現象学』などのクリティカルな分析があり、そういう意味でも重要書の1つ。
★ジャック・デリダ+サファー・ファティ『言葉を撮る デリダ/映画/自伝』(原書2000年、港道隆+鵜飼哲+神山すみ江訳)、青土社
ここで私が、〈作者〉によって選ばれたタイトル、D'ailleurs, Derrida『デリダ、異境から』という表題のもとに分析していることは、単に〈役者〉ないし「私」の側、映画の映画化された斜面の側でのみ生じていることではない。それはまた、映画の〈作者〉が選んだエクリチュールと構成の様態、彼女の映画化する操作(撮影と編集)でもある。切断、飛躍、ショットの変化を、余談から余談へと移行しつつ増殖させていく付随構文は、「同じ」「主体」に、つねに、それを失いつつ、仕え[sert]かつ縛る[serre]。〈役者〉と私のあいだで、それは主体ではない。だからそれは「同じ」「他者」なのであり、それ自身とは別のもの、またしてもよそなのである。
★ジャック・デリダ『条件なき大学』(原書2001年、西山雄二訳)、月曜社
私たちは〔大学の〕内部と外部のあいだで限界そのものに触れており、とりわけ、大学それ自体の境界線に、大学における〈人文学〉の境界線に触れていることになります。私たちは〈人文学〉の内部でその単純化しえない外部と未来のことを考えます。〈人文学〉の内部のなかに閉じこもっていることはできないし、そうすべきではないと、私たちは〈人文学〉の内部で考えます。しかし、こうした思想は、強力で首尾一貫したものとなるために〈人文学〉を必要とします。……つねに分割可能なこの限界においてこそ、この限界に対してこそ、到来するものが到来するのです。まさにこの限界は到来するものの影響を被って変化します。分割可能であるがゆえに、この限界は歴史をもちます。……したがって、この境界線に即して、大学は自らの抵抗を駆け引きし、組織しなければなりません。そして、自らの責任を負わなければなりません。
★ジャック・デリダ『パピエ・マシン 上』(原書2001年、中山元訳)、ちくま学芸文庫
タイプライターや羽根ペンと比較すると、コンピュータでは事故の危険性がはるかに高いのです。ちょっとした停電、うっかりした操作、ぎこちなさ、それだけで数時間の仕事の成果が一瞬のうちに消え去るかもしれないのです。いわば自発性、自由、流動性が過剰なのです。そのために危うさ、脅威にさらされているという感覚、あるいは静かな苦悩にひたされているという感覚が高まります。ある種の〈疎外の恩恵〉とでも言うべきでしょうか。わたしはこの〈疎外〉という言葉を中立的な意味で、「他なるものにする」という意味で使います。マシンの〈他なる無意識〉はどこかまったく別の場所から、わたし自身の言葉をわたしに送り返してきます。愛情と憎悪のアンヴィバレンツにおいて。この新しいマシンは、身体について、眼と手について、耳について、まったく別の説明を示してくれます。他なる身体の口述筆記、法、〈他なる無意識〉の命令によって。
★ジャック・デリダ+エリザベート・ルディネスコ『来るべき世界のために』(原書2001年、藤本一勇・金澤忠信訳)、岩波書店
アウシュヴィッツ以降とは、思考を再び−始めることであり、もはや書かないというのではなく、むしろほかの仕方で書くのを始めることです。もはや書かないというのはばかげたことで、最悪の裏切りになりかねません。いずれにせよ、どちらの場合も不可能なのであって、すなわち問題なのは〈不可能事〉なのです。私たちはそこで起こったことに影響されて、すなわち影響されるがままになろうと決心することさえなく影響されて、忘れることも思い出すこともできないものについて証言するのです。なぜ文学、虚構、詩、哲学が消滅しなくてはならないというのでしょうか? さらに、なぜこの証言が、歴史の終わり、芸術の終わり、文学あるいは哲学の終わり、すなわち沈黙、といった評決ないし死の判決の力をもつのかという問いには目が向けられていません。「極めて繊細な沈黙の声」は、私がよく理解できて[=聞けて]いるならば、逆にまったく別の仕方で再び−始めることを私たちに厳命しているように思われるのです。
★ジャック・デリダ『デリダ,脱構築を語る シドニー・セミナーの記録』(ポール・パットン、テリー・スミス編、原書2001年、谷徹・亀井大輔訳)、岩波書店
私たちの義務とは何であるべきか? それは、何よりもまず、メディアの亡霊性に対する批判的な文化を発展させることです。たとえば、メディアが私たちに信用するように求めてくるものを、私たちは疑わなければなりません。メディアがいわゆる生の報道を解釈し、フィルターにかけ、脚色することができるということを、私たちは知っているのですから。メディアは事象そのものを私たちに示すふりをします……。私たち全員がそれを見るのですから、私たちはメディアがその対象、その情報等を人工的につくり上げる仕方について知り、それを人々に教えなければなりません。それを教えることはメディアの外にいる私たちだけの責任ではありません。こうした批判力を高め、メディアのなかで起こっていることを専門技術的に教え、ますますメディアの力を支配するようになっている国際企業体の集中に抵抗することは、メディアのなかにいる人々の責任でもあります。
★ジャック・デリダ『マルクスと息子たち』(原書2002年、國分功一郎訳)、岩波書店
私が新しいインターナショナル……について述べていることは、市民権や国民的共同体や党や祖国といったものの終焉をほとんど前提していないのと同様に、社会的な力と支配の諸関係の廃止もほとんど前提としていない。問題となっているのはただ、社会的諸力……の諸々の対立と差異を横断する、分析と政治参加行動の別の次元である。私は、そのような次元(例えば、諸社会階級、国家内での階級、国際的水準での階級、国民国家の内部での政治闘争、国籍と市民権の諸問題、党の戦略等々といった次元)が、上位にあるとか下位にあるとか、一次的であるとか二次的であるとか、根本的であるとかそうでないとかなどとは言わない。そうしたことはすべて、諸々の緊急事態や、構造的にもたらされる諸々の結果や、そして何よりもまず一つ一つの特異的状況というものの価値を新たに測定する作業に各瞬間ごとに左右されるものである。そのような価値測定作業には、定義上、あらかじめ存在する基準などはないし、絶対的な計算可能性もないのであって、分析は、毎日、各場所ごとに、再開されねばならず、あらかじめ存在する知によって保証されるということは絶対にありえない。行為、決定、政治的責任−そして再政治化−といったものがあるとすれば、それは、このような条件のもとでの、このような厳命の条件のもとでのことである。
★ジャック・デリダ『フィシュ アドルノ賞記念講演』(原書2002年、逸見龍生訳)、白水社
夢みる言説が夢を主題とするさいの、この明晰さ、光、Aufklarung〔啓蒙〕−それについて私が思い浮かべるのは、まさにアドルノです。哲学者の「否」、そして詩人、作家、随筆家、音楽家、画家、演劇や映画の脚本家、さらには精神分析家の「そう、おそらくは、時にはそれはありうる」とのあいだで、絶えずためらいつづけた人として、アドルノを私は賛嘆し、愛します。「否」と「そう、おそらくは、時には」のあいだでためらいながら、その双方から、アドルノは遺産を相続しました。概念、そして弁証法ですら、特異な出来事を抱き取ることができないことをアドルノは重く受けとめ、その二重の遺産相続が課する責任を果たそうと、彼は全力を傾けたのです。実際、アドルノは、何を私たちのうちに喚び起てているのでしょうか? 夢と現実との差異、哲学者の「否」が仮借なき厳格さで私たちにわきまえていよと迫る、あの真実は、このうえなく美しい夢を侵し、毀し、「傷つけ」(beschadigt)、その上に染みと汚点(Makel)の署名を書き込みこれを奪いにやってくるのだ、ということです。
引用者註
デリダの「脱構築」と、アドルノの「否定弁証法」は、非同一性の擁護などの点で共通すると思う。
up!!★ジャック・デリダ『ならず者たち』(原書2003年、鵜飼哲・高橋哲哉訳)、みすず書房
主権があるやいなや、権力の濫用およびならず者国家がある。濫用は使用の法である、それが法そのものであり、それが分割なき全一性においてしか支配できない主権というものの「論理」である。より正確には、というのもそのような支配への到達は、危機的な、一時的な、不安定なものでしかないからだが、主権は、ある限られた時間、分割なき全一性における支配へと、向かうことができるだけなのである。それは帝国的覇権に、向かうことができるだけである。この時間を使用することは、すでに濫用することである−まさにここで、私がその後を追い、ゆえに私がそれであるならず者がしているように。ゆえに、ならず者国家だけがある。潜勢的に、あるいは現働的に。国家はならず者的である〔L'Erat
est voyou〕。通常考えられているよりつねに多くのならず者国家がある。……しかし、これから述べるような最後の逆転が、最後の最後の逆転がある。……すなわち、あらゆる国家がならず者国家であるところ、ならず者支配〔voyoucratie〕が国家主権の支配〔cratie〕そのものであるところ、ならず者しかいないところには、もはやならず者はいない。
★ジャック・デリダ『そのたびごとにただ一つ、世界の終焉T』(原書2003年、上田知則・岩野卓司・國分功一郎訳)、岩波書店
私が強く感じるのは、とりわけその人が愛されている場合……、他者の死が告げているのは一つの不在、消失、それぞれの生の終わり、すなわち、(常にただ一つである)世界がある生者に立ち現れる可能性が終わりを迎えてしまった、ということではない、ということです。死がそのたびごとに宣告するのは世界の全面的な終焉、およそ考えられうる世界の完全なる終焉なのです。それはそのたびごとに、ただ一つの−それゆえ、かけがえのない、果てしない−総体である世界の終焉を宣告しているのです。まるで、無限なるすべてのものの終焉、すなわち世界それ自体の終焉、そのたびごとにただ一つの世界の終焉がなおも反復されることがありうるといった次第なのです。単独的に。決定的に。
★ジャック・デリダ『雄羊』(原書2003年、林好雄訳)、ちくま学芸文庫
詩の祝福。この二重の属格は、メッセージの受け手であれ読者であれ、他者を祝福すると同時に他者によって祝福されるものでもあるような詩に恵み=贈与をよく伝えている。しかしこうした他者への語りかけは、自己−指示的な反射作用を排除するものではない。詩は自分自身について語るのであり、詩が開始するエクリチュール〔書くこと〕、署名、読解の場面について語るのだと言うことは、つねに可能なのだ。ただこうした鏡の作用による自己目的的な反射作用は、自閉的なものではなくて、それと同時に、そして後戻りできないし方で、他者に授けられた祝福、与えられた手、開かれていると同時に折りたたまれた手なのである。
ここでテクストとは、祝福を授ける手であるのだが、それにしてもそれは、この内部の境界に沿って、拒絶され、身を隠し、消え失せる危険のある手なのである。
★ジャック・デリダ「自己免疫:現実的自殺と象徴的自殺」(原書2003年、『テロルの時代と哲学の使命』所収、藤本一勇・澤里岳史訳)、岩波書店
私たちはいつも同じアポリアに連れ戻されます。一方の手には、ある種の国際的な暴力(「テロリズム」の暴力や兵器の拡散と同じく、市場、世界資本の集中などの暴力も含む)からの保護を提供するという点で、「国家」形式(国民国家の主権)が、つまり民主制的な市民権が果たす肯定的かつ有益な役割があります。そしてもう一方の手には、その主権が神学的な遺産であり続ける国家、その国境を非市民に閉ざし、暴力を独占し、国境を管理し、非市民を排除したり抑圧したりする国家の、否定的あるいは制限的な効果があります。ここでもまた、国家は自己保護的であると同時に自己破壊的でもあり、薬であると同時に毒でもあるのです。パルマコンはこうした自己免疫論理のもうひとつ別の名、古い名です。技術知の進歩(生ける存在者の支配、航空術、新しい情報遠隔テクノロジー、電子メール、インターネット、携帯電話、等々)が大量破壊兵器へ、あらゆる種類の「テロリズム」へ不可避的に変質していくことのうちに、パルマコンが作動しているのが見られます。この変質は、問題になっている進歩がまず何よりもスピードとリズムにおける進歩である場合、いっそう速く生じます。……したがって、……最悪なものがまた最良でもあるようなのです。このことこそが、あいかわらず恐ろしいこと、恐怖を覚えさせ、恐怖に陥れることなのです。それこそが、地球上で、テラで、領土の内部あるいはその彼方で、あらゆるテロリズムの究極の資源[頼みの綱]なのです。
引用者註
パルマコン:「治療薬」であると同時に「毒薬」。デリダが『散種』(1972)のエクリチュール論から転用したもので、テクノロジーの進歩もそうした機能をもつということだろう。
★ジャック・デリダ『生きることを学ぶ、終に』(原書2005年、鵜飼哲訳)、みすず書房
生き残りとは生の彼方の生、生以上の生のことであり、私が展開する言説は死と狎れあうようなものではありません。反対にそれは、死よりも生きることの、すなわち生き残ることのほうを好む生者の肯定なのです。というのも、生き残りとは、単に残るもののことではなく、可能なかぎり強烈な生のことなのですから。幸福と快楽の瞬間ほど、私が死ぬことの必然性に取り憑かれることはけっしてありません。享楽することと、迫る死を思い悲嘆に暮れて泣くこと、私にとってそれは同じことです。自分の生を思い返すとき、私には、自分の生の不幸な瞬間まで愛するというチャンス、それらを祝福するというチャンスがあったと考える傾向があります。一つの例外をのぞき、ほとんどすべての不幸な瞬間を。幸福な瞬間を思い返すときには、それらもまた、私はもちろん祝福します。同時にそれらの瞬間は、死の想念に向けて、死に向けて私を急き立てます、なぜならそれは過ぎ去ってしまった、終わってしまったのですから……。
引用者註
デリダが世を去る1ヶ月ほど前のインタビュー。