Terry Eagleton(1943〜)

★テリー・イーグルトン『テリー・イーグルトンのブロンテ三姉妹』(原書1975, 1988年、大橋洋一訳)、晶文社
『嵐が丘』のすぐれた功績のひとつとは、ヴィクトリア時代における家族概念を容赦なく脱神秘化したことにある。闘争にあけくれる社会の内部に穿たれた敬虔で平穏な空間という家族観を、この作品は粉砕してしまう。だが、たとえそうでも嵐が丘はさまざまな矛盾をまだかろうじてひとつにまとめてバランスをたもっていたのだ。そのバランスをヒースクリフは、破ってしまうことになる。ヒースクリフが嵐が丘を攪乱するのは、彼が余計者、余剰的存在であることにつきる。彼は嵐が丘の生物的システムのなかにも、経済システムのなかにも確定的な場をもたない。……彼が体現する余剰性。それはまた、社会的地位にとらわれずに、裸の人間として認識してほしいという願望とも一体化しているのだが、しかし、それにしても困窮した経済状態の嵐が丘には、そのような余剰性をうけいれる余地はないため、いきおいヒースクリフの存在も、創造ではなく破壊をもたらすものとなり、すでに敵対関係を宿している人間関係をますます緊張させ悪化させることになる。ヒースクリフは一種の触媒であり、彼を介して嵐が丘の社会に内在する攻撃性があらわになる。ヒースクリフがはじめて嵐が丘に連れてこられた晩、ヒンドレーがキャサリンをぶつ音が聞こえてくる。この音は、ささいなものだが、しかしヒースクリフの到着だけをきっかけにして葛藤がはじまったのではないことを裏付ける、有力な証左なのである。
引用者註
エミリー・ブロンテ(1818〜48):「ブロンテ三姉妹」の2番目。姉はシャーロット、妹はアン。
『嵐が丘』:1847年刊行。新潮文庫、岩波文庫、角川文庫、光文社古典新訳文庫などに訳書がある。


★テリー・イーグルトン『クラリッサの凌辱−エクリチュール, セクシュアリティー, 階級闘争』(原書1982年、大橋洋一訳)、岩波書店
『クラリッサ』における手紙は、女性の性の記号のみならず女性そのもの、男性優位のシステムを確固たるものにする流通財産と、考えることができる。小説のなかで「流通する」もの、つまりテクスト交換の大がかりな流通経路を統合するもの、それはクラリッサ自身である。彼女が、娘なのか愛人なのか、ライバルなのか親友なのか、被保護者なのか財産保有者なのかはここでは問題ではない。クラリッサの売買・拘束・譲渡・保護のうえに、書簡の流通[=流通貨幣]は基礎づけられる。魔法によって守られているかのごとくみずからは決して変化せず、他のすべてのものを「魔法のごとく」変容させ、「純粋な金」でありながら、絶えず流動する貨幣という「普遍的商品」(マルクス)。それはクラリッサの肉体であり、このクラリッサの肉体こそ、テクストの言説そのものなのである。他者に権力もしくは欲望の地位を割り振り、クラリッサの神秘的で侵すことのできない存在に対する悲惨な関係のなかに他者を固定してしまうシニフィアン、それが彼女の肉体なのだ。と、こう主張することは、とりもなおさず、クラリッサが小説中で「超越的シニフィアン」として行動すると語るに等しい。
引用者註
サミュエル・リチャードソン(1689〜1761):『筑摩世界文学大系』第21巻にて『パミラ』が訳されている。
『クラリッサ』:1748年刊行。訳書は多分なし。Clarissa, or, the History of a Young Lady


up!!★テリー・イーグルトン『美のイデオロギー』(原書1990年、鈴木聡・藤巻明・新井潤美・後藤和彦訳)、紀伊國屋書店
星座的布置の観念は、……いろいろな問題をかかえてはいるものの、今日もなお持続的かつ示唆的な力を保っている。しかし、ベンヤミンの思想の多くの部分がそうであるように、この観念も、それが危機の時代に誕生したという歴史的背景から完全に引き離してしまうことはできない。ファシズムが権力を掌握するにつれ、ある意味においてベンヤミンの全経歴そのものが、必要に迫られた星座的布置と化してゆく。悲哀劇における、戦争に倦み疲れた体制のように、廃墟と化したかのような歴史にさからい、近づいてくるおぞましい断片や破片を継ぎはぎしたものとなるのだ。ベンヤミンは「歴史哲学テーゼ」でこう論じる、重要となる過去のイメージは、危険な局面において歴史が選び出したひとりの人間のまえに思いもかけず不意に現れると〔第六テーゼ〕。またおそらくこれは、ベンヤミンによって「理論」とはいかなるものかを物語るものでもあるだろう。つまり、理論とは極端な圧力のもとにあってはじめて、緊急に寄せ集められ、手元に用意されたものであるということだ。彼は、容赦なく圧倒的な歴史の連続性を、彼の手元にあるごくわずかな弱々しい武器で粉砕しようと企てる。その武器というのは、ショック、寓喩、異化、メシア信仰的な時間の異種混交的な「断片」、ミニチュア化、機械的複製、カバラ的解釈の暴力性、シュルレアリスム的なモンタージュ、革命的な郷愁、再活性化された記憶の痕跡、そしてしらじらしく本音にさからった読みの方法といったものである。このようなほとんど無謀とも思える大胆な企てが実現する可能性があったとすれば、そのためには、バロック時代の寓喩が成立するための条件と同様、知らないあいだに背後で歴史が断片へと瓦解しつつあるということ……が必要であった。その破局は、国という構成体がいまや国際的な空間によってはっきり流行遅れにされてしまったという、ひとりよがりな思いこみが偽りであることを暴く。逆に、ファシズムによって白日のもとにさらされることとなったのは、国際的独占資本主義が、国民的遺産を打ち捨てるどころか、その遺産を徹底的に流用することによって、かえって自らの極度の政治的危機を招くにいたっているという実態、またしてもかたちづくられる古いものと新しいものの思いもかけぬ星座的布置である。
引用者註
本書のベンヤミン論は、(少々異論はあるものの)読み応えがある。


up!!★テリー・イーグルトン『表象のアイルランド』(原書1995年、鈴木聡訳)、紀伊國屋書店
土地の風俗になじもうとすることで、啓蒙思想をいだくアングロ・アイリッシュは、自分たちの社会的なよるべなさを克服しようとし、そうすることによって、ジェイムズ・ジョイスをよるべない身のうえとして、国外脱出に導く原因の一部となった。……せめぎ合う種々の文化が収斂する場所があるとすれば、それは、『ユリシーズ』と『フィネガンズ・ウェイク』のページのうえということになるはずだ。けれども、慣用語法のこの実り豊かな交換は、亡命という、場所ならざる場所でしか生じない。あるいは、書物のなかでしか生じないといってもよい。アセンダンシーのもとであろうと、自由国のもとであろうと、そのような交換がアイルランドでは生じ得ないということこそは、ジョイスの作品の政治的意味なのである。ジョイスの文学的実験が、彼のおかれた植民地的なコンテクストに触発されたものであることは、はっきりしている。宗主国の伝統があまり役に立たないからこそ、彼は、いっぷう変わった形式を独自に発明したのである。モダニズムのさなかにあるヨーロッパの心を躍らせるような核心部にジョイスを乗り出させたのは、故国の無気力であったのだ。ロンドンで時間をつぶすことなく、ダブリンから直接、パリを目指すことによって、ジョイスは、自分が軽蔑しているナショナリストたちと同じくらい確実に宗主国の文化を避けて通ることができた。彼は、振り返って古代アイルランドに向かう一方、前方にあるはずの、いまだ誕生していない国民に視線を送ることにより、両者のあいだに介在しているイギリスによる統治の歴史をご破算にしようとする。だが、ジョイスの文学的廃品利用によってもたらされる、シニフィアンの自由な戯れが指示対象としているもの(アイルランド)は、そうした自由がだいたいにおいて欠如している場所であった。それゆえにこそ生まれるのが、ジョイスのフィクションの「自由な状態」〔自由国〕である。そこにあっては、絶え間なく変貌し続ける言説が、循環的な閉域の内部で運動を繰り広げるのだ。
引用者註
第8章のオスカー・ワイルド論も読み応えがある。
ジェイムズ・ジョイス(1882〜1941):アイルランド出身。パリとチューリヒ亡命時代に以下の2冊は書かれた。
『ユリシーズ』:1922年刊行。柳瀬尚紀訳の河出文庫があるが、ジョイスのすごさを知るには、原書を読むべきだと思う。Ulysses
『フィネガンズ・ウェイク』:1939年刊行。丸谷才一ら訳の集英社文庫があるが、こちらも原書から入るべき作品。Finnegans Wake


★テリー・イーグルトン『とびきり可笑しなアイルランド百科』(原書1999年、小林章夫訳)、筑摩書房
「国民とは同じ場所に住む同じ人間たちである」とは、ジェームズ・ジョイスの小説『ユリシーズ』の登場人物の言葉である。あるいはアイルランドの場合であれば、同じ場所から逃げ出そうとする同じ人間たちであると、つけ加えることができるかもしれない。この国から出ていくことほど、この国固有の経験はないのである。過去一〇〇年ほどの間、この島は燃えさかるビルさながらに空っぽになる一方だったが、それというのもアイルランド人がほかの土地で自分の運を試そうと、船出していったからである。この結果、奇妙な状況が生まれる。たいていの国は人間が住んでいるその土地なのに、アイルランドの場合、国土はあるが、人間はほかの場所にいるのである。アイルランドという国はひとつの場所にあるが、その歴史の大部分はほかの場所で起きたものなのである。このため、国土そのものが急速に非現実的になっている。この国にかつて住んでいた人々、あるいはその末裔たちにとって、ここは神話に出てくる国のようになり、いよいよ現実の姿とは似ても似つかない想像の土地になっているのだ。


up!!★テリー・イーグルトン『アフター・セオリー−ポスト・モダニズムを超えて』(原書2003年、小林章夫訳)、筑摩書房
理論なしでは人間生活が考えられないという意味では、「理論の終わり」はあり得ない。状況の変化に従って、特定の思考形態を使い果たすだけのことだ。資本主義の新しいグローバルな物語が生まれ、これとともにいわゆるテロとの戦いが起きている状況では、ポスト・モダニズムという思考形態は今、終焉に向かっているのかもしれない。結局、大きな物語が過去のものとなったことを確信させたのは、ポスト・モダニズムの理論だった。振り返ってみれば、それは大いに好まれてきた小さな物語の一つと見られるようになるだろう。しかしながら、これによって文化理論には新たなチャレンジがもたらされる。ポスト・モダニズムが野心的なグローバル規模の歴史に関わるのならば、それにふさわしい自らの源泉をもたなければならず、しかもこれは直面する状況に、深さでも広がりでも匹敵するものでなければならない。
引用者註
個人的には異論だらけだが、それこそがイーグルトンらしさ!