★アニメにおける都市と記憶、戦争−カルチュラル・スタディーズ試論−
そして、我々はみな、記憶喪失者なのだ。
もうひとつの、この世でない世界を忘れてしまっているだけ……。
渡辺信一郎『カウボーイビバップ 天国の扉』(1)
1.はじめに
文化とは何であろう? カルチュラル・スタディーズ(以下CS)の先駆者であるレイモンド・ウィリアムズは、「文化とは、生産組織や家族構造、そして社会的関係を表現し、規定する制度の構造、またある社会の成員同士がコミュニケーションする際に用いる独自の形式を含んだものである。」と定義している。(2)20世紀以降の文化を考える上で、この定義は重要であると思う。つまり20世紀以降は、大量生産・消費を中心とした資本主義の発展、大家族の解体と核家族化、そして高等教育拡充などによる新しい文化の担い手としての市民階級及び大衆の勃興、またそうした市民階級及び大衆がコミュニケーションする際に用いる独自の形式として「大衆文化」や「サブカルチャー」があるからだ。
他方、CSのディック・ヘブディッジやスチュアート・ホールによると、20世紀以降の文化は、@高級文化(かつてブルジョアが担ってきた支配文化)、A大衆文化(大量生産と消費を前提とし大衆が担っている文化)、Bサブカルチャー(メインに対するサブ、若者を中心とし、そのスタンス、スタイル、姿勢などが支配文化や両親の文化から嫌悪感や道徳的危機をあおり、雑種性や周縁性を備えた文化)の3つの大別される。(3)本稿で扱う日本製の商業アニメーション、いわゆるアニメは、Aの大衆文化とBのサブカルチャーの両方にまたがった文化であると定義しておく。(4)その理由は次の4点からである。
(1)サブカルチャーといっても支配文化や両親の文化から一定の認知がある。
(2)既に現代日本のメイン・カルチャーとなっている。
(3)ある種の潜在的抵抗はあるものの、それは微力。
(4)雑種性や周縁性は確かにあるが、それは作品内でのこと。
CSは、決して政治的・社会的文脈から切り離された1つのカテゴリーとして文化を研究するわけではない。その目的は、文化の複雑さを理解し、文化が表象され、実践される政治的・社会的な文脈を分析する点にある。またCSにとって、文化は研究の対象であると同時に、政治的・社会的な批判や行動の場でもある。したがって本稿はアニメを研究対象にするが、そこで表象される政治的・社会的文脈なしに語ることは控えたいと思う。またアニメを分析する方法として、精神分析学(フロイト、ラカン、クリステヴァ、ジジェクら)を援用したい誘惑に駆られるがそれも採用しない。本稿で密かに採用しているのはCSの方法の1つでもあるロラン・バルトの記号論や、アルチュセールのイデオロギー論である。(5)
彼らの理論によると、記号は、たいていコードとして組織されている。またコードは、1つの文化の成員や社会集団によって、意識するしないに関わらず合意された規則に支配されている。したがって、記号体系とは、コード化された意味やメッセージを伝達し、それらはコードを理解する者のみが解読することができるものなのである。本稿に即して述べるなら、アニメの記号は、原画や動画、背景などによって構成される映像であり、その映像はアニメーターやそれを受容する大衆や若者によって合意された規則によってコード化されている。そしてその意味やメッセージはアニメというコードを理解する者のみが解読することができるものであり、そうした記号やコードから構成された意味をもった構造が、アニメの各作品=テクストなのである。
本稿は、誌面の都合上、取り上げ分析するアニメが限定されている。日本産のアニメーションが製作されだした大正時代や昭和戦前の作品、あるいは宮崎駿の人気作には全く触れてない。また1963年のTVアニメ第1号、手塚治虫の『鉄腕アトム』や、70年代の第1次アニメブームの『マジンガーZ』、あるいは80年代の第2次アニメブームの『機動戦士ガンダム』などについても軽く触れているだけである。本稿は88年の『AKIRA』以降、グローバリゼーションの波に乗り世界でも評価の高いアニメーター、大友克洋、押井守、庵野秀明の3人の監督作を中心に、押井組やガイナックスのニューウェーヴの作品や、最近の注目作『ガサラキ』と『カウボーイビバップ』を取り上げた。要するに、97年の劇場版『新世紀エヴァンゲリオン』を頂点とした第3次アニメブーム前後の作品である。
なおテーマは、アニメにおける都市と記憶、戦争である。
2.大友克洋と『AKIRA』
1988年に大友克洋原作・脚本・監督のサイバーパンクアニメ『AKIRA』が公開された。大友は、73年に『銃声』でデビューしたマンガ家である。彼は、その後『ハイウェイスター』『童夢』などを刊行した後、82年から『週刊ヤングマガジン』誌上で『AKIRA』の連載を開始した。彼の作風の特徴は、トーンをほとんど使わず書き込みのみで表現するビジュアルと、子供や老人を含めた東洋人のキャラクターをきちんと描写している点などである。アニメーターとしては、87年にオムニバス作品『ロボットカーニバル』と『迷宮物語』の制作に参加し、88年に構想10年、製作費10億円というプロジェクトとして劇場版アニメ『AKIRA』を完成する。
この作品は、第3次世界大戦が終結した31年後の2019年、日本の新首都ネオ東京が舞台である。ネオ東京は新たな繁栄期を迎えていた。しかし、その陰ではドラッグや反体制グループによるテロが横行するなど混乱に満ちあふれ、職業訓練生の金田や鉄雄らは、対立する暴走族との抗争に明け暮れていた。旧市街の高速を走行中のある日、鉄雄は老人のような子供である実験体26号と出会う。鉄雄は、大佐率いる軍によりラボに収容され、アキラプロジェクトの新たな実験体とされる。このアキラとは、第3次世界大戦の契機となり東京壊滅の要因となった究極の力をもった実験体である。金田は鉄雄救出のため反体制グループのケイらとともにラボに潜入するが、彼らの前で鉄雄は超能力に覚醒し、アキラの眠るオリンピック会場建設現場へ向かう。
劇場版『AKIRA』は、基本的に超能力を主軸に2人の少年の両義的な共−依存関係とそこからの決別を描いた作品である。まず驚かされるのは、緻密なビジュアル表現を裏打ちするアニメ技術である。たとえば15万枚のセル画使用や、台詞をプレスコし発音に合わせて口の形を変えて作画することによる動きのしなやかさ、透過原稿の下に光をあててホログラムのような効果にする映像美など。そうした点で、当時考えられるセルアニメ技術の全てを投入した作品といって過言ではない。また『AKIRA』の舞台であるネオ東京は、近未来都市である。しかし高層ビルやハイウェイの間には、前近代的な下町や路地、廃墟ビルやスナック、落書きされた壁や排水溝など懐かしく猥雑な都市空間が描かれている。要するに、われわれの身体や記憶と結びついた都市を喚起させる作品でもあるのだ。
それだけではない。たとえば軍を指揮する大佐が腐敗し堕落した最高幹部会に対してクーデターを起こす場面は、戦前の日本を思い起こさせる。また冒頭の東京壊滅のキノコ雲は、広島や長崎の原爆、老人のような子供の実験体の存在は、その変異体と見なされうる。さらに東京オリンピック及び反体制グループの活動は、60年代及び安保反対闘争を想起させる。(6)このように現代日本の歴史的出来事を寄せ集め、それを近未来都市ネオ東京に散種した点に、この作品のラジカルな批評性があるのだ。
ところで、この作品はディストピアと終末というテーマで欧米の観客の度肝を抜いたといわれる。(7)しかし日本製アニメにとってこうしたテーマは決して珍しくない。それよりむしろ日本の暴走族というサブカルチャーをスタイリッシュに描いた点が新鮮だ。主人公の2人、金田と鉄雄は、職業訓練生である。しかも2人とも孤児施設出身である。つまり彼らは否応なく家族や社会から疎外され、支配的エリートから遠い労働者階級を運命づけられ、オートバイという武器でしか代償機能あるいはレジスタンスできない少年なのである。暴走族というサブカルチャーが男根中心主義である事は確かだ。この作品でもケイや鉄雄に思いを寄せるカオリにしても組織から周辺的な存在でしかない。もっともこれは大友がマンガにおいても女性表現がへただということの反映でもあるが。
大友は初監督の劇場版『AKIRA』以降、91年に原作・脚本『老人Z』、95年に総監督・総製作指揮・原作『MEMORIES』、98年に企画協力『PERFECT BLUE』、同年に製作総指揮『スプリガン』、01年に脚本『メトロポリス』と多数のアニメ作品に協力し、04年に約10年の企画・製作を費やした監督作『STEAM BOY』を公開する。この作品は、産業革命時代のロンドンを舞台としたもので、さまざまな新手法を採用したフルデジタルアニメである。はたして大友は『AKIRA』を超えられたのだろうか?
3.押井守と『攻殻機動隊』
『AKIRA』以降、海外で評価されるアニメ作品が登場し、これらを当時ジャパニメーションと呼んだ。ただ欧米などでは語感が差別的だという点などから、この言葉はすぐ撤回された。しかし日本では、新聞、週刊誌、テレビなどのマスメディアが、日本製アニメを賞賛するキャッチフレーズとしてジャパニメーションというタームを使用した。この文脈で語られた監督が、宮崎駿、大友克洋、押井守、庵野秀明らである。
押井のアニメーターとしてのキャリアは、77年の竜の子プロダクション入社から始まる。彼のインタビューによると、特にアニメに拘りがあったというわけでなく、成り行きで入社したようである。(8)80年にはスタジオぴえろに移籍し、TV版『うる星やつら』のチーフディレクターを経て、83年の劇場版『うる星やつら オンリー・ユー』で監督デビュー。84年にはフリーとなり、以降、86年の『紅い眼鏡』など実写映画の監督をしつつ、劇場版『機動警察パトレイバー』シリーズなどを公開し、アニメファンだけでなく、評論家や映画ファンを含め支持された。押井がこれらのノウハウを生かして95年に制作したのが、製作費6億円、日米英同時公開という形で公開された、士郎正宗原作の劇場版ポストサイバーパンクアニメ『GHOST IN THE SHELL攻殻機動隊』(以下『攻殻機動隊』)である。
この作品は、2029年、アジアの一角にある多国籍企業国家ニューポート・シティを舞台に、政府直属の特殊部隊である公安9課、通称「攻殻機動隊」の活躍を描いた。攻殻機動隊の隊長である草薙素子は、脳と脊髄以外は義体と呼ばれる規格化された機械であり、マイクロマシーンが触覚層を覆うサイボーグである。また脳は首筋のジャックによりコンピューターのネットワークとアクセス可能であり、人間の記憶や人格、それらを包括する「ゴースト」を操作できる。このゴーストとは、サイボーグの精神、個性、自我、人格などを指すが、自分のゴーストに満足できない素子は、ある事件を契機に「人形使い」の義体と出会う。物語は、うち捨てられた廃墟である博物館における、素子と人形使いの電脳との融合及び義体の破壊、さらに新しい少女の義体を獲得した素子の再生で終了する。
押井の意図は「アニメという素材でどのように映画を構築するか」にあった。本作も士郎正宗の原作を巧みに脱構築し自らの作品として完成させた。その際、映像表現の中にデジタル技術を大きく導入した。デジタル技術は大きく3つに分けられる。1つは、いわゆるコンピューター・グラフィックス(CG)と呼ばれるもの。2つ目は、映像処理に用いられたデジタル技術。これは、冒頭の義体製造シーン、カーナビや戦車の夜間暗視装置などさまざまなモニター関連の映像に用いられ、近未来のネットワーク社会を表現する小道具として効果を上げた。3つ目は、合成にデジタル技術を用いたデジタル合成。これは、画面を構成する要素を別々に撮影し、それをコンピューター上で合成し1つの画面にするもので、熱光学迷彩や、都市をバックにした素子の引きやクローズアップなどに疑似3次元的な効果をあげた。(9)要するに、デジタル技術を積極的に取り入れることで、従来のセルアニメの表現の制約を超えると同時に、実写では表現できないサイバースペースをも映し出したといえよう。
では『攻殻機動隊』のテーマは何だろう? 実はこの作品とそれ以前の劇場版『機動警察パトレイバー』2作品には共通点がある。それは物語の舞台である近未来都市、東京やニューポート・シティ(香港がモデル)への愛憎、あるいは都市の虚構性や脆弱性の暗示であり、また過去を忘却し再開発されていく都市に対する主人公たちの記憶への拘りである。単純に世代論に還元することはエクスキューズしたいが、押井は朝鮮戦争ただ中の1951年に東京大森に生まれ育っている。また高校時代には67年の羽田闘争に参加するなど学生運動にコミットし、「革命よりも戦争、内戦を切望する」日常生活を送った。(10)要するに、40年以上、東京に住んでいた押井にとって、変貌し続ける東京は郷愁と同時に憎しみの対象であり、都市の虚構性や脆弱性を実感していたのだろう。押井がいうように「映画とは基本的に答えるものではなく、問いかけるもの」である。そういう意味でこの作品は、現代のサイバーシティを生きるわれわれの記憶と忘却、現実と虚構の二重性に対するクリティカルな問いかけとなっている。
4.庵野秀明と『エヴァ』『カレカノ』
『攻殻機動隊』が公開された1995年は、オウム真理教による地下鉄サリン事件が、治安がいいと思われていた東京で起こり、世界の耳目を集めた。その後、教祖の逮捕により、細菌兵器開発、マインド・コントロール、リンチ事件などが発覚した。こうした世紀末の社会状況の下で、同年から翌96年にかけてTVアニメとして放映されたのが、庵野秀明監督の『新世紀エヴァンゲリオン』(以下『エヴァ』)である。この作品は、キャラクターの魅力と謎を秘めたストーリー展開で人気を集め、その後TV版では不十分と思われた物語の再考のため劇場版が2本製作された。
庵野は、中高校生の頃からマンガとアニメにどっぷりだったらしい。大学時代の81年に山賀博之や岡田斗志夫ら後のガイナックス設立のメンバーと出会い、『DAICONV』、TV版アニメ『超時空要塞マクロス』、大学放校後は、宮崎駿の『風の谷のナウシカ』の原画担当し、アニメーターとしてのキャリアを積んでいく。84年、『オネアミスの翼・王立宇宙軍』制作のため設立されたガイナックスに参加し、88年『トップをねらえ!』で監督デビュー。以降、90年に『不思議な海のナディア』の監督を経て、評論家や一般人を巻き込み社会現象となり、第3次アニメブームの火付け役となった出世作『エヴァ』の制作に至るのである。
『エヴァ』は、簡単にいうと、『ウルトラマン』など特撮からロボットアニメへ発展したバトルものを『機動戦士ガンダム』以降の要素をも踏まえ90年代的に洗練させたロボットアニメである(東浩紀)。また本作は、2015年の「第3新東京」を舞台に、エヴァに乗る14歳の少年少女を主人公とした。一連の『エヴァ』シリーズは、従来のアニメにはない斬新なカットによる構成や、緻密で自虐的な心理描写が、時代の感性とマッチしたため幅広い共感を呼び、「エヴァ現象」を生んだ。いわゆる「エヴァ本」は本屋に溢れかえり、ネットでもさまざまな意見が飛び交い、『エヴァ』関連商品の売り上げを集計すると300億円といわれている。また登場人物の台詞や感情表現を、断片的な逸話や間ショットで寸断する映像演出や、宗教学、生物学、精神分析学などから借用した「エヴァ用語」が話題を呼んだ。
主な「エヴァ言説」を整理すると、次の5つに分けられる。1つは、カバラやキリスト教の宗教用語や世界観を援用した作品世界に、オウム真理教との共通性や自己啓発セミナーの手法を感じ「表現個人主義」の限界を指摘した論議(大塚英志、宮崎哲哉ら)。第2は、精神分析学の立場で、精神分裂病者が自己の肉体を取り戻す物語だ(野火ノビタ)とか、むしろ分裂病と神経症の境界線上の病気、境界例的な作品だ(斉藤環)とか、フロイトのエディプス・コンプレックスやジャック・ラカンのシェーマ・エルを援用して主人公の3人と父母との関係を構造論的に解き明かした(香山リカ、上野俊哉、ヤナミレイアら)論考。その他、世代論(鈴木琢磨、島田敬三、速水栄ら)、映像論(金澤誠、篠崎誠ら)、ジェンダー論(小谷真理)と、97年の言論界を賑わせた。(11)このように学者や評論家を巻き込みさまざま議論を呼んだアニメはかつて存在しなかったという点で、『エヴァ』は特異な作品であったといえよう。
その後、庵野は98年に津田雅美の人気マンガを原作にTVアニメ『彼氏彼女の事情』(以下『カレカノ』)を製作する。この作品は、基本的に神奈川県下一の進学校北栄高校に通う宮沢雪野と有馬総一郎を中心とした学園ドラマである。実はマンガを原作にしたアニメはきわめて多いが、マンガの記号論的な表現スタイルを解体・再構築してアニメに生かした作品はほとんど皆無である。しかし庵野の監督したTVアニメ版『カレカノ』は、コマの配分、吹き出し、オノマトペなどマンガの記号を積極的にサンプリングした。特に第19話「14DAYS・1」では、紙芝居を使った劇メーションで、クレヨンや鉛筆で描いた紙人形を燃やしたりするなど、アニメの表現方法の実験を行っている。
ではアニメ作品である『エヴァ』と『カレカノ』に共通する特徴は何であろうか? まず『エヴァ』で描かれた「第3新東京」の光景は、ジオフロントは別にして現実の「東京」とほとんど変わりがない。またその都市機能も、信号機、コンビニ、コインランドリーはあるし、主人公たちの食生活もレトルトのカレーや即席麺など現実の東京の若い世代の食生活を反映している。さらに神奈川県箱根町に作られた「第3新東京」は、衛星都市のニュータウンにありがちな、均質的で悪くいえば殺菌された都市空間である。他方『カレカノ』は、神奈川県の郊外のニュータウンにおける県立高校及びその周辺(川崎市武蔵小杉がモデル)が舞台で、宮沢家などは典型的な中産階級の核家族である。要するに、『エヴァ』と『カレカノ』の舞台は、日本の都市の囲われ、閉ざされた空間=箱庭であり、両作品とも日本人の中産階級の共通感覚をシミュレートし、その嗜好に沿うように作られた作品であるということができるだろう。(12)この点において大友の『AKIRA』や押井の『攻殻機動隊』とは決定的に差異がある。
5.押井組
2000年に押井守は実写とCGを合成した『アヴァロン』を監督する一方、同年の沖浦啓之監督の『人狼JIN-ROH』の脚本、および翌01年の北久保弘之監督の『BLOOD THE LAST VAMPIRE』の企画協力するなど、作品のプロデュースに参加する。監督である沖浦と北久保は、アニメ制作会社プロダクションI.G内にGスタジオというゲーム制作スタジオが立ち上がった96年に、押井を中心として若手の演出家や制作者を育てようと始まった押井塾の関係者及び出身である。
まず沖浦の『人狼JIN-ROH』は、押井の実写作品である『紅い眼鏡』(87)と『ケルベロス 地獄の番犬』(91)といった「可能性の戦後史」をテーマとしたケルベロス・サーガをアニメ化した。この作品は、戦後の混乱期の首都東京を舞台に、治安部隊である首都圏治安警察機構、通称「首都警」の孤立化を描いた。すなわち、強引な経済再編政策により失業者と凶悪犯罪が急増し、それに伴い反政府運動も過激化していく中、政府は反政府勢力掌握のため、首都圏に限り治安部隊・通称「首都警」を設置する。立法措置により非合法化した反政府勢力は「セクト」と呼ばれる都市ゲリラとして潜伏し、時に市街戦の様相を呈する首都警との抗争は泥沼の一途を辿ってゆく。世論は強大な武力で粛正を行う首都警を激しく非難したため、首都警は、その敵であるセクトと共に孤立を深めていく。
『人狼JIN-ROH』は、基本的に押井のいう「犬の視点」で描かれたケルベロス・サーガの原作及び脚本に基づき、沖浦が新しいケルベロス・サーガを創作したものであるといえるだろう。ただし沖浦は、押井とは相違した映像表現でこの作品を製作した。押井の『攻殻機動隊』や『アヴァロン』の場合、映像表現の中にデジタル技術を大きく導入し、革新的な作品のイメージが強い。しかし沖浦が監督したこの作品は、従来のアニメ技術であるセル画を用い、セル画のマテリアルに強く拘りを見せた結果、実写では再現不可能な昭和30年代の町並みやその雰囲気が随所に醸し出され、作品や人物造形に深みを与えた。この作品の映像表現の試みは、押井の作品を含むデジタルアニメに対するアンチテーゼといえるが、それと同時に押井のケルベロス・サーガの世界を新たな方法論で描き、新しい可能性を発揮したという点において積極的に評価できる。
一方、北久保の『BLOOD THE LAST VAMPIRE』は、PS2版「やるドラ」ゲームや押井の小説『獣たちの夜』と同時進行で(ただし時代設定を変えて)製作した劇場版アニメである。この作品は、1966年のベトナム戦争最中の米空軍・横田基地を舞台に、ヴァンパイア・翼手の唯一のオリジナルである少女・小夜の活躍を描いた。基地周辺で相次ぐ不審な自殺の陰に翼手の存在を察知した「組織」は、基地内のアメリカンスクールに小夜を送り込む。小夜はセーラー服姿の少女で、日本刀を片手に翼手たちに闘いを挑むといった話である。
「アニメを実写のように動かす」というのが押井塾の特徴である。そのためこの作品が映像表現として採用したのは全編フルデジタルで、3DCGは全体の約20%使用した。3Dをレンダリングする場合、往々にしていかにもCGといった固い絵になってしまう。そこで、手書きのテクスチャーを貼ったり、トゥーンシェーダーを使いラインを馴染ませることで上手くクリヤーした。要するに3DCGと手書きの画をエフェクトを使い上手く処理し合成した点に、この作品のデジタル映像表現の新しさがあるといえる。また光、色彩、質感、そして何より1960年代の空気感を綿密に設計し、作り込んだ点も評価できる。 映像表現の点でいえば、『人狼JIN-ROH』と『BLOOD THE LAST VAMPIRE』は対極に位置する作品である。しかし押井の世界及び表現領域を拡げるという意味で、両作品が果たした役割は計り知れない。押井がバックアップしたこの2作品、脚本と音響プロデュースを担当した02年の『ミニパト』、押井組の神山健治が監督した02年から03年のTVシリーズ『攻殻機動隊 STAND ALONE COMPLEX』を経て、満を持して押井が監督した作品が04年の劇場版アニメ『イノセンス』である。この作品は『攻殻機動隊』のサブキャラクターであったサイボーグ・バトーを主人公にしたもので、一連の「攻殻機動隊」シリーズの延長線にある。
6.ガイナックスのニューウェイブ
庵野秀明は1998年から99年のTVアニメ『カレカノ』を監督する一方、アニメを離れ、実写作品として98年に村上龍原作の『ラブ&ポップ』、01年に『式日』、04年に『キューティーハニー』を撮っている。特に『ラブ&ポップ』はデジタルビデオカメラで撮影した作品で、アニメでは不可能なカメラワーク(たとえば画面をクルクル回す)などで庵野色が発揮された。どうやら庵野は『エヴァ』の厄落としとして実写作品を製作したようである。他方、『エヴァ』劇場版で「Air」をバックに戦闘シーンを提案したり、球体の使徒や電車の中の心理描写のアイディアを出したガイナックス期待の星である鶴巻和哉が1999年に初めて監督したOVAが『フリクリ』(全6巻)である。
この作品は、謎の医療機器メーカー・メディカルメカニカのアイロン型の建物以外は何の変哲もない地方都市・疎瀬を舞台にした不条理ロボットアニメである。ここに住む小学6年のナオ太と彼の兄の彼女である高校2年のマミ美は、ある日ベスパに乗った謎の女ハル子と出会う。その日からナオ太の回りには異変が起き始め、頭部に変な症状が起き、思いがけないところからロボットのカンチが出現する。これ以降、物語は謎のロボットとの闘い、さらには宇宙大戦争にまで発展していく。
『フリクリ』は、OVAというマニア向けであるため、きわめて実験的な作品である。たとえば第1話「フリクリ」では、『カレカノ』で使われたマンガの記号論的な表現スタイルがサンプリングされているが、さらにデジタルの力でパワーアップしている。また庵野が友情メカ作画監督にクレジットされている第4話「フリキリ」はメタフィクションアニメといっていい逸話で、先行テクストである『エヴァ』や『フリクリ』第1〜3話との自己参照性、ナオ太というキャラの解体、物語の脱中心化、他のテクスト、たとえば『ルパン3世』『サウスパーク』『マトリックス』などとの間テクスト性などを指摘できる。さらに第5話「ブラブレ」でも、多くの映画、アニメ、アート作品がカットンミックスされ、第4話の3作品以外にも、日本の美少女変身アニメや『トライガン』、アメリカのポップアートやアメコミ、『ナイトメア・ビフォア・クリスマス』『レザボアドッグス』などがコラージュされている。要するに、第5話は、文化的次元におけるアメリカニゼーションとジャパニゼーションの抗争の場として読解可能でもある。
しかし『フリクリ』の舞台である地方都市・疎瀬も、『エヴァ』や『カレカノ』と同じように囲われ、閉ざされた空間=箱庭である。しかも鶴巻はそのことに自覚的である。第5話「ブラブレ」に封入されているブックレットには「故郷、家族という箱庭でのサバイバルゲーム」とある。したがって、この作品も日本人の中産階級の共通感覚をシミュレートし、その嗜好に沿うように作られた作品であるということができるだろう。それは庵野がオープニングの絵コンテを担当し山賀博之が監督した02年の『まほろまてぃっく』や、庵野が監修し大塚雅彦が監督した同年のTVアニメ『ぷちぷり*ユーシィ』などガイナックスの他のアニメ作品にいえることである。
ただし庵野が第13話の絵コンテを担当し山賀が監督した02年の『アベノ橋魔法☆商店街』(以下『アベ商』)は、少し事情が異なる。この作品は、再開発の進む大阪の下町、アベノ橋商店街を舞台としたギャグアニメである。商店街に住む小学6年生のサッシとあるみは幼なじみであった。しかし風呂屋を営んでいたサッシの家は取り壊され、あるみ一家も北海道に引越しを考えている間、ふとしたことから二人はお互いの店に、商店街の四方を護る晴明神社に深い関係があると思われる四神獣が奉られていることを知る。そうした中で、あるみの店のシンボル「ペリカン」(四神獣の朱雀)を祖父の雅ジイが事故で壊してしまう。いよいよ立ち退きが決まったその夜、奇怪な出来事が起こりはじめ、翌日、サッシとあるみは、晴明神社から不思議な世界へ迷い込んでしまう。そこはいつもの商店街とはガラリと違う、全く常識が通用しない魔法商店街だった。
『アベ商』は、基本的にガイナックスの『カレカノ』や『フリクリ』の系統につながるハイテンションなギャグアニメである。また剣と魔法、大銀河、香港格闘、古代恐竜、ハードボイルド、学園、メルヘン、戦場、そしてハリウッドと名前が冠された商店街を、テレビゲームのステージようにクリアしながら元の世界に戻る点でいえば、『フリクリ』第2話「ファイスタ」のように、ゲームと現実、過去と現在が混在したアニメといえる。そうしたギャグとゲーム感覚満載の娯楽アニメなのだが、舞台設定がガイナックスの他のアニメとは明らかに異なる。
この作品の舞台である大阪の下町、アベノ橋商店街とは、現在再開発が頓挫したままの王子本通商店街と阿倍野橋にある商店街とを組み合わせたものがモデルである。ここで現実の阿倍野再開発事業を整理しておこう。この事業は、南大阪の玄関口、天王寺駅に接する金塚地区が対象区域で、近代商業施設の整備を進めるため計画された。そごう資本で87年にオープンした「あべのベルタ」をはじめ、「阿倍野スポーツセンター」「高層住宅棟」が完成した。しかしその裏では、再開発という名の地上げが横行し、店の取り壊しと住民の移住が強いられた。しかも折からの平成大不況や大阪市の財政悪化を受けその事業は頓挫したままで、今や懐かしく猥雑な大阪の下町は犯罪多発地帯と化している。要するに、行政主導の再開発は、われわれの身体や記憶と結びついた下町を破壊したわけである。
『アベ商』は、徹底的に「大阪」に拘った作品であり、大阪にロケハンに行き、大阪弁やコメディリライトのスタッフを配置し、キャスティングもできるかぎり大阪周辺出身の役者で固めた。ここで思い起こしたいのは、ガイナックスの前身であるダイコンフィルムである。庵野やこの作品の監督山賀はともに大阪芸術大学出身であり、阿部野橋は彼らの大学時代のテリトリーである。他方、商業アニメの中心は東京である。したがって多くのアニメは東京及び首都圏を舞台としており、地方都市・大阪を舞台とした作品は『じゃりン子チエ』位である。つまり大阪を舞台とし、雑種性と周縁性を備えたアニメは、この世に存在しなかったという意味で一定の評価をしてよいと思われる。ただしガイナックスの姿勢としては、ギャグアニメを製作することが主体であり、舞台は大阪でもどこでもよかったのが実情ではあるが。(13)
7.『ガサラキ』と『カウボーイビバップ』
日本産アニメの中で最も人気のあるジャンルが「ロボットアニメ」である。それは1つには、日本初のTVアニメが1963年の手塚治虫原作の『鉄腕アトム』であり、翌年には横山光輝原作の『鉄人28号』が放映されるなど、TVアニメがロボットアニメから始まったことが大きく影響している。ロボットと人間が共存した近未来における、意志や感情まで持つ自律した人間型ロボットであるアトムと、少年・正太郎の遠隔操作により、悪の組織やロボットと闘う巨大ロボットである鉄人28号。70年代のロボットアニメの代表である永井豪原作の『マジンガーZ』や『ゲッターロボ』を引き合いに出すまでもなく、日本産のロボットアニメは、『鉄腕アトム』ではなく『鉄人28号』のような巨大ロボットもの(ただし操縦者がコックピットに乗り込むタイプ)が主流となっていく。
79年の『機動戦士ガンダム』以降、富野義幸(のち由悠季)と日本サンライズ(のちサンライズ)を中心としてリアルロボットブームが起こる。『機動戦士ガンダム』は、地球連邦軍とジオン公国軍の巨大ロボット=モビルスーツの戦争を主軸としたリアルな世界観と、アムロ・レイやライバルのシャア・アズナブルなどのキャラの性格造形が卓越しており、社会現象となる。なお富野が監督したガンダム・シリーズは、85年のTV版『機動戦士Zガンダム』、86年のTV版『機動戦士ガンダムZZ』、88年の劇場版『機動戦士ガンダム 逆襲のシャア』、91年の劇場版『機動戦士ガンダムF91』、93年のTV版『機動戦士Vガンダム』、そして自分自身の「ガンダム」に決着を付けたといわれる99年のTV版『Aガンダム』がある。
これらガンダム・シリーズととともにリアルロボットアニメの最高峰といわれるのが、高橋良輔が監督した81年の『太陽の牙ダグラム』と83年の『装甲騎兵ボトムズ』である。特に後者は、『機動戦士ガンダム』では世界観の一部に過ぎなかったミニタリーを軸に、軍の謀略に巻き込まれた青年兵キリコを主人公としたロボットアニメである。フランシス・コッポラの映画『地獄の黙示録』の影響を受け、ガンダムよりもリアルなロボット=アーマードトルーパーがデザインされ、キリコとさまざまなライバルたちの出会いを描いたドラマ演出も見事だった。その後、高橋は85年の原作・監督で『蒼き流星レイズナー』、95年の監督作『沈黙の戦艦』を経て、98年に原案・監督として『ガサラキ』を制作する。
この作品は、二足歩行兵器タクティカルアーマー(以下TA)の開発など日本の軍需産業を独占する豪和一族と、アメリカの軍需企業シンボルの攻防を主軸とし、豪和家の4男、ユウシロウとシンボル側のミハルの2人を主人公にしたロボットアニメである。中東のベルギスタン紛争を解決するため日本の特殊自衛隊が出動し、ユウシロウもTAチームの一員として出撃し、敵側の二足歩行兵器フェイクに乗っていたミハルと教会で出会う。その後、日本にシンボルの特殊部隊が潜入する中で、政界の黒幕で民族派右翼の西田と会見した豪和家長男の一清は、日本を支配する計画を立てる。西田の計画により戒厳令が発令される中、豪和の野望から解放されたユウシロウはTAチームの協力を得て単身TAで横田基地に突入するが失敗。ユウシロウは次第に一清と対立していく。
『ガサラキ』は、基本的に『装甲騎兵ボトムズ』や『蒼き流星レイズナー』のノウハウを生かした作品である。しかしこの作品は90年代のポスト冷戦時代の新しい戦争を考える上で重要なアニメ作品である。この作品のベルギスタン紛争は、明らかに91年の湾岸戦争におけるイラクが、またその実況中継は、湾岸戦争におけるCNNの実況中継がモデルとなっている。ジャン・ボードリヤールは「湾岸戦争は無性生殖的で、外科手術的な戦争、ウォー・プロセッシングであり、そこでは、敵はコンピューター画面上の標的としてしか姿を現さない」と述べている。(14)この新しい戦争を実写で再現することはほとんど不可能である。それをアニメで再現し、また右傾化する日本の政治状況やロボットの軍事転用の可能性までリアルに描ききったところに『ガサラキ』の真骨頂がある。
湾岸戦争以降の戦争を「非対称戦争」という。この戦争形態は、01年9月11日に起きた米国同時多発テロ以降、米英が行った02年のアフガニスタン戦争や03年のイラク戦争の例を挙げたら分かるように、超大国が圧倒的武力で、テロ集団と名指しした国家及びグループを攻撃するという形をとる。ボードリヤールは、ル・モンド誌に掲載したエッセイに中で湾岸戦争以降の戦争を「第4次世界大戦」とよび「第4次世界大戦はすべての世界秩序を、すべての種類の覇権を脅かすものである。もしもイスラムが世界を支配するようになったならば、イスラムを狙うテロリズムが発生するだろう。というのは、世界そのものがグローバリゼーションに抵抗しているからである」と述べている。(15)要するに下からの非対称戦争ということだが、そうした戦争形態の可能性を予告したといわれているのが、01年の劇場版SFアニメ『カウボーイビバップ 天国の扉』である。
この作品は、B級アクション映画のテイストを醸し出すことに成功したサンライズの関連会社BONESが制作した98年のTV版アニメ『カウボーイビバップ』(全26話)を受けて公開された。まずTV版は、位相差ゲート爆発事件から50年後の2071年、人類が地球から太陽系に散らばり、国家、民族、人種といった壁が失われる一方、秩序が崩壊し闇組織などが暗躍する時代、宇宙船ビバップ号でカウボーイという名の賞金稼ぎを行う4人を主人公とした。この4人、つまりスパイク、ジェット、フェイ、エドのアウトロー的なキャラ設定、CGを駆使したビジュアル、格好良い台詞、ジャジーなテーマ曲、「移動とある種の共同性の追求」というテーマなどが、多くの支持を集めた。監督は、『機甲猟兵メロウリンク』『機動戦士ガンダム0083』などの演出・絵コンテを担当し、95年の『MACROSS PLUS』を初監督した渡辺信一郎である。
他方、劇場版は、TV版の第22話と第23話の狭間に位置する逸話で、4人の主人公が別れる直前に起こった事件を扱っている。2071年、火星の都市アルバシティーの高速道路でタンクローリーが爆発し、タンクから漏れ出た正体不明の生物化学兵器(実はナノマシン兵器)により500人以上の死傷者を出したテロ事件が起こる。犯人には3億ウーロンの懸賞金がかけられたため、ビバップ号のクルーたちは犯人捜しを開始する。犯人は2年前ある戦争で死亡したと記録されている元軍の特殊部隊のメンバー、ヴィンセントであった。死んでいるはずの犯人、軍の特殊部隊と関係している製薬会社、ヴィンセントの恋人であったエレクトラ、ハッカーのリー・サムソン。最後は、ハロウィンのパレードで賑わう街を見下ろすアルバタワーでのスパイクとヴィンセントとの対決で幕を閉じる。
『カウボーイビバップ』の4人の主人公、つまりスパイク、ジェット、フェイ、エドのは、国家、民族、人種、社会、家族といったカテゴリーから逸脱した賞金稼ぎというアウトローである。常に安定を求めず「移動」するディアスポラ的ポジションがアウトローの本質だとしたら、劇場版の犯人であるヴィンセントや元恋人のエレクトラの2人とはアウトローというスタンスにおいて変わりがない。またスパイクは、元恋人ジュリアを巡って親友であったビシャスに裏切られた過去をもつが、ヴィンセントも、軍のナノマシン兵器開発の人体実験に晒され記録上から抹殺された過去がある。要するにスパイクとヴィンセントは、お互い消し去ることのできない過去の傷痕をもつアウトローであり、この劇場版は、同じような傷痕を残す2人の男が互いに引き寄せられつつ対峙するというSFハードボイルド・アクションアニメなのだ。
ところでこの劇場版が公開されたのは01年7月から8月にかけてで、その約1ヶ月後に現実世界で米国同時多発テロが起こる。「世界そのものがグローバリゼーションに抵抗している」時代の下からの非対称戦争である。その結果、ブッシュやブレアら米英の新保守主義の政治家によってアフガニスタン戦争やイラク戦争という報復=「第4次世界大戦」が遂行されたことは記憶に新しいだろう。確かに劇場版『カウボーイビバップ』はテロ事件を題材として扱っている。しかし決定的な違いは、米国同時多発テロとそれに対する報復が、国家、民族、人種、宗教といったイデオロギーあるいは原理主義に基づくものであるのに対して、この作品はそうした主義主張からはほど遠く、スパイクとヴィンセントの闘いが、個人の名において闘う個人闘争であるという点である。
富野の『機動戦士ガンダム』をはじめとする一連のガンダム・シリーズ以降、高橋の『装甲騎兵ボトムズ』や『ガサラキ』、渡辺の『カウボーイビバップ』など、すべての作品の主人公に共通していえることは、世界に対峙する個人、そしてその中で苦しみもがき格闘する主人公たちである。これらの作品において、時に国家や都市に対する憎悪、戦争やジェノサイドなど人間世界の負の面が描かれる。つまりアニメは、アニメの外側の現実世界の出来事を作品表現の内側に亡霊のように取り込み主題化してきたのだ。アニメーターが意識するかしないかにかかわらず、政治的・社会的文脈から切り離された1つの実体としてアニメは決して存在しない。そうした政治的・社会的文脈をきちんと捉え作品を分析することが、CSに基づいたアニメ論に不可欠なことはいうまでもないだろう。なおBONESの作品には、02年のSFアニメ『ラーゼフォン』や、03年の『WOLF'S RAIN』がある。
8.おわりに代えて
88年の『AKIRA』以降、グローバリゼーションの波に乗り、大友克洋、押井守、庵野秀明、宮崎駿らの作品が欧米やアジアなどで紹介されてきた。現在ヨーロッパのTVアニメーションの80%が、日本製アニメといわる。またアメリカでも、99年に『ポケモン・ザ・ファースト・ムービー』が全米第1位の興行成績を記録したのを契機に、日本製アニメの紹介が飛躍的に増えている。ハリウッドでも、03年にウォシャウスキー兄弟の『マトリックスローデッド』と平行して渡辺信一郎なども参加した『アニマトリックス』が製作されるなど影響を与えている。こうした状況を受けて、日本では新聞、週刊誌、テレビなどマスメディアによって、マンガ、ゲームとともに「アニメは日本が世界に誇る文化だ」といった常套句が盛んに宣伝されている。
ジョン・トムリンソンは、60年代までの近代を特徴づけるものは「文化帝国主義」であり、70年代以降の現代の文化的状況を特徴づけるものは「グローバリゼーション」であると述べた。(16)このグローバリゼーションは、経済、政治、文化、テクノロジーなどの多次元の領域における複雑に絡み合った同時多発的なプロセス(複合的結合)であり、あらゆる種類の矛盾や抵抗や相殺する力を含んでいる。たしかに日本製アニメは、このグローバリゼーションの文脈で語ることができる。それは、経済自由化の波により、市場はあらゆる国家的な規制から開放され、資本が国境を越えて移動するとともに、情報や情報娯楽が脱領土化し、日本製アニメが新しい文化として欧米などで注目されているということだ。
しかし「アニメは日本が世界に誇る文化だ」といった常套句は、実はアニメやアニメーションをよく知らない人が使っているように思われる。現在週に100本近くのアニメが、日本のCS、BS、地上波デジタル、地上波のTVで放映されているが、観る価値のある作品は全体の10分の1以下しかない。また世界のアニメーション史に残したい作品など日本の商業アニメ史の中に20本ある程度で、ユーロ・アニメーションやカートゥーンなどを含めると、世界には素晴らしい監督や製作スタジオの作品が多くある。たとえば、ロシアでは、ユーリ・ノルシュテイン、レフ・アタマノフ、アレクサンドル・ペトロフ、チェコでは、イジー・トルンカ、カレン・ゼーマン、ヤン・シュヴァンクマイエル、イジー・バルタ、ドイツでは、オスカー・フィッシンガー、フランスでは、ポール・グリモー、アレクサンドル・アレクセイエフ、ルネ・ラルー、ベルギーでは、ラウル・セルヴェ、イギリスでは、ブラザーズ・クエイ、アードマン・スタジオ、カナダでは、ノーマン・マクラレン、フレデリック・バック、コ・ホードマン、アメリカでは、ティム・バートン、日本では、人形アニメーションの川本喜八郎や岡本忠成……。そう考えると、日本製の商業アニメの文化的な価値は、相対的なものなのだ。
しかしこうした文化相対主義の立場を取ることにより、かえって日本製アニメのポジションや特徴がよく見えてくる事も確かだ。たとえば本稿で取り上げた大友、押井、庵野の監督作、押井組やガイナックスのニューウェーヴの作品、『ガサラキ』と『カウボーイビバップ』は、ユーロ・アニメーションやカートゥーンなどにはあまりない、都市と記憶、戦争といったテーマで語ることができた。またそこで表象されている世界、ポリティックス、ジェンダー、セクシュアリティなどは独特のものがあり、CSや精神分析学などの知識を援用することにより、より豊かにテクスト分析をすることができる。そういう点で、日本製アニメは、最良の情報娯楽であり、われわれはそれらを学問と分離=節合することで、記号やコードから構成された意味を読み解くことができるだろう。
注
(1)渡辺信一郎『カウボーイビバップ 天国の扉』角川スニーカー文庫,2002年,183ページ.
(2)Raymond Williams, The Long Revolution, Penguin, 1975, p57(若松繁信他訳,レイモンド・ウィリアムズ『長い革命』ミネルヴァ書房,1983年,43ページ).ウィリアムズの文化理論としてもう1つ大事なのが、グラムシのヘゲモニー理論を援用したMarxism and Literature, 1977の第2章の議論.
(3)Dick Hebdige, Subculture, the Meaning of Style, Routledge, 1981(山口淑子訳,ディック・ヘブディッジ『サブカルチャー』未来社,1979年),Stuart Hall and Tony Jefferson eds, Resistance Through Rituals, Hutchinson, 1989など参考.
(4)ポール・ウェルズによると、「生命を吹き込むこと、そして関連語であるアニメーション、アニメーションの、アニメーターはすべて、「生命を与えること」を意味するラテン語のanimareに由来し、アニメーション映画という文脈の中で、これは、生気のない線と形態において動いていると錯覚する人工的な創作(物)を主として意味する。」(Paul Wells, Understanding Animation, Routledge, 1998, p10).つまりアニメーションとは、生命を持たないものが、作者の意図によって生命を吹き込まれ、動いていると錯覚する映像作品ということである。その歴史は映画よりも古く、1825年のソーマトロープから始まり、フェナキスチスコープ、ゾートロープ、プラクシノスコープなど19世紀に発明された一連の光学装置に遡ることができる。またアニメーションの種類は、セル画やCG以外に、ペーパー、切り絵、シネカリグラフィ、パペット(人形)、クレイ(粘土)などがある。他方、日本製のアニメーションを「アニメ」という。ジル・ポワトラによると、「アニメは日本で製作される任意のアニメーションである。日本において、その用語は単に「アニメーション」を意味する。アニメは、時々間違って1つの「ジャンル」として言及されるうちに、事実上、映画や文学において見出されるすべてのジャンル、つまり英雄叙事詩とロマンスからSFとコメディまでを含む芸術形式である。」(Gilles Poitras, Anime Essentials, Stone Bridge Press, 1991, p7).本稿では、主にセル画やCGを使った日本製の商業アニメーションを「アニメ」と呼ぶこととする。
(5)ロラン・バルトの記号論は、次のテクストを参考.篠沢秀夫訳『神話作用』現代思潮社,1967年,宗左近訳『表徴の帝国』ちくま学芸文庫,1996年,沢崎浩平訳『第三の意味』みすず書房,1984年,花輪光訳『明るい部屋』みすず書房,1997年.またルイ・アルチュセールのイデオロギー論は、山本哲士他訳著『アルチュセールの「イデオロギー」論』三交社,1993年などを参考.
(6)Isolde Standish, Akira, Postmodernism and Resistance, D.P.Martinez ed. The Worids of Japanese Popular Culture, Cambridge University Press, 1998, p63-64.
(7)神山京子訳,スーザン・J・ネイピア『現代日本のアニメ 『AKIRA』から『千と千尋の神隠し』まで』中公叢書,344〜386ページ.Susan J. Napier, Panic Sites, John Whittier Treat ed. Contemporary Japan And Popular Culture, University of Hawai'i Press, 1996, p237-238.
(8)『キネマ旬報』第1204号「臨時増刊1996年10月26号」キネマ旬報社,23〜24ページ.
(9)ヤングマガジン編集部編『THE ANALYSIS OF 攻殻機動隊』講談社,1995年のディジタル映像処理(田中誠一・松本薫・長尾健治)参考.
(10)アニメージュ編集部編『攻殻機動隊 PERSONA 押井守の世界』徳間書店,1996年,30〜36ページ
(11)以下の著書・論文・記事などを参考.大塚英志「『オウム』を越えるはずが…」(『読売新聞』1996年4月1日),宮崎哲哉「『脳内革命』『新世紀エヴァンゲリオン』ブームに警告する」(『SAPIO』1996年12月25日号、小学館),野火ノビタ「大人は判ってくれない」(五十嵐太郎編『エヴァンゲリオン快楽原則』所収、第三書館、1997年),斉藤環「「境界例」に漂う孤独と空虚からの同一性」(『スタジオボイス』1997年3月号所収、INFAS),香山リカ「「他者の語らい」の中の人たち」(『SFマガジン』1996年8月号所収、早川書房),上野俊哉「ジャパノイド・オートマトン」(『ユリイカ』1996年8月号所収、青土社),ヤナミレイア『エヴァンゲリオン解体新書』(史輝出版、1997年),鈴木琢磨「『エヴァンゲリオン』とオウム世代の危うさ」(『サンデー毎日』1997年4月6日号所収、毎日新聞社),島田敬三「『エヴァ』に群がる『私探し』シンドローム」(『Wedge』1997年5月号所収),速水栄『エヴァンゲリオン限界心理分析』(ネスコ/文藝春秋、1997年),金澤誠「「エヴァンゲリオン」における映像的記憶」(『キネマ旬報』1997年3月下旬号所収、キネマ旬報社),篠崎誠「『エヴァンゲリオン』に内在する映画的記述、崩壊、そして…」(『スタジオボイス』1997年3月号所収、INFAS),小谷真理『聖母エヴァンゲリオン』(マガジンハウス、1997年).
(12)上野俊哉「ジャパノイド・オートマトン」『ユリイカ』1996年8月号所収,青土社,180・189ページ.
(13)アフタヌーンKCDX1518『まんが アベノ橋魔法☆商店街〜アベノの街に祈りを込めて〜』,講談社,2002年の佐藤裕紀インタビュー参考.
(14)塚原史訳,ジャン・ボードリヤール『湾岸戦争は起こらなかった』(紀伊國屋書店).
(15)Jean Baudrillard, L'esprit du terrorisme, Le monde, 2001-10-3.
(16)片岡信訳,ジョン・トムリンソン『グローバリゼーション』青土社,2000年.
参考文献
毛利嘉孝他訳,ジャウディン・サルダー他『INTRODUCING カルチュラル・スタディーズ』作品社,2002年などカルチュラル・スタディーズ関連のテクスト.
ニュータイプ・コンプティーク共同編集『BLOOD THE LAST VAMPIRE 公式ビジュアルブック』角川書店,2000年.
別冊宝島638号『日本のアニメ』宝島社,2002年.
日経BP社技術研究部編『進化するアニメ・ビジネス』日経BP社,2000年.
多田信『これがアニメビジネスだ』廣済堂出版,2002年.
『世界と日本のアニメーションベスト150』ふーじょんぷろだくと,2003年.
『アートアニメーションの素晴らしき世界』エスクァイア マガジン ジャパン,2002年.
昼間行雄他編『Cine Lesson 別冊 ユーロ・アニメーション』フィルムアート社,2002年.
『ニュータイプ』,『アニメージュ』,『日経キャラクターズ!』,映画のパンフレット,ビデオ/DVD及びブックレットなど.
1.メディア・スタディーズの歴史(アメリカ)
まずメディア・スタディーズ前史として押さえておきたいのは、社会学におけるコミュニケーション論の古典である。とりわけゲオルグ・ジンメル(独)が、「心的相互作用」の観点から「社交」を分析した『社会学の根本問題』(清水幾多郎訳、岩波文庫)と、ガブリエル・タルド(仏)が、拡散した群衆=「公衆」論を展開した『世論と群衆』(稲葉三千男訳、未来社)は、今日のコミュニケーション論に繋がる議論をしており、重要であろう。両者の著書は20世紀初めにアメリカで翻訳されている。
アメリカでは、「シカゴ学派」のコミュニケーション論に繋がるチャールズ・H・クーリーと、ジョージ・H・ミードの著書を読んでおきたい。クーリーは、社会的存在としての自己の形成は、他者の評価を通じてであるとした「鏡に映った自己」論で名高いが、それを社会的行動主義の立場から、アイ(I)とミー(me)との対話にほかならないとしたのがミードである。ミードの講義録『精神・自我・社会』(河村望訳、人間の科学社)は是非読んでおきたい。
またワレン・ウィーバーとクロード・E・シャノンの共著『コミュニケーションの数学的理論』(長谷川淳・井上光洋訳、明治図書出版)における「シャノン=ウィーバー・モデル」も常識として捉えておきたい。このモデルは、メッセージが情報源からチャンネルを通じて目的地にノイズを受けながら受信されるとしたもので、「送り手→メディア→受け手」といったメディア論の公式となった理論である。他方、もう1つ有名なモデルが、ハロルド・D・ラスウェルによる「ラスウェルの公式」である。これは「誰が、何を、どのような回路で、誰に、どんな効果で」伝えるかという分類方法で、コミュニケーションのプロセスを「送り手」、「内容」、「媒体」、「受け手」、「効果」という5つの研究分野に分割したが、この最後の「効果」がメディア論を考える上で肝要となる。ウィルバー・シュラム編『マス・コミュニケーション』(学習院大学社会学研究室訳、東京創元社)所収の「社会におけるコミュニケーションの構造と機能」をチェックしておきたい。
さてアメリカのメディア・スタディーズの歴史は、プリンストン大学の「ラジオ調査局」と、それを発展・改組したコロンビア大学の「応用社会調査研究所」(BASR)から始まったとみるのが妥当だろう。このいわゆる「コロンビア学派」では、当初「強力効果論」が有力であった。この仮説はマス・メディアの大衆への影響力が強力であるというもので、「皮下注射説」ともいう。「ラジオ調査局」の副主任であったハドリー・キャントリルは『火星からの侵入』(斎藤耕二・菊池章夫訳、川島書店)という名著を残している。この著書はオーソン・ウエルズのラジオ番組により、火星人が襲来すると信じ込んだ大衆を調査したもので、ロバート・K・マートンの『大衆説得』(柳井道夫訳、桜楓社)とともに、「強力効果論」の代表作である。
他方、「応用社会調査研究所」所長だったポール・F・ラザースフェルドは、1940年の大統領選挙を調査した『ピープルズ・チョイス』(有吉広介監訳、芦書房)において「二段階の流れ」モデルを唱えた。このモデルは、マス・メディアが大衆にもたらす効果は、オピニオン・リーダーを介して他のメンバーに伝わるとしたものである。この仮説を実証するため、エリフ・カッツとともに『パーソナル・インフルエンス』(竹内郁郎訳、培風館)で、映画の選択などにおけるオピニオン・リーダーの役割を強調し、マス・メディアの効果は強力ではなく限定されているとした。これを「限定効果論」という。なおエベレット・M・ロジャーズがイノベーションの普及過程を研究した『技術革新の普及過程』(藤竹暁訳、培風館)は、この理論を批判的に継承したものである。
テレビの暴力シーンの数や種類について内容分析を試み、そこから視聴者が社会の危険性をどのように認識しているかを調査を行ったジョージ・ガーブナーの「涵養理論」も有名である。しかし彼の著書は残念なことに翻訳されていない。またメディアの4つの「基本的充足の機能」を分析したデニス・マクウェールは翻訳書が多くあり、『マス・メディアの受け手分析』(時野谷浩訳、誠信書房)、『コミュニケーションの社会学』(山中正剛訳、川島書房)、S・ウィンダールとの共著『コミュニケーション・モデルズ』(山中正剛・黒田勇訳、松籟社)、『マス・コミュニケーションの理論』(竹内郁郎ほか訳、新曜社)は必読書だ。
そしてエリーザベト・ノエル=ノイマンは『世論形成過程の社会心理学』(池田謙一訳、ブレーン出版)において、名高い「沈黙の螺旋」論を展開した。この仮説は、マス・メディアが特定の意見を多数派の意見として提示することによって、少数派の反対意見は表明されにくくなり、螺旋状に進行するというものである。アメリカのイラク戦争における報道と世論の変遷を考えると、「沈黙の螺旋」論は充分うなずける。ガーブナー、マクウェール、ノエル=ノイマンなどの潮流は、マックスウェル・マコームズとドナルド・ショーが提唱した「議題設定」(アジェンダ・セッティング)の仮説とともに、「強力効果論」への回帰と称されることが多いが、むしろ「限定効果論」との複合と考えた方がいいだろう。
2.メディア・スタディーズの歴史(ドイツ、カナダ)
ドイツでは、フランクフルトに設立された「社会研究所」の批判理論におけるメディア論が重要だ。アメリカは基本的にプラグマティズムに基づいたメディア論であるが、このいわゆる「フランクフルト学派」はマルクス主義の影響が強い。第1世代は、マックス・ホルクハイマーを中心に、テオドール・W・アドルノ、ヘルベルト・マルクーゼ、エーリヒ・フロム、そしてヴァルター・ベンヤミンなどがいる。マルクーゼの『一次元的人間』(生松敬三・三沢謙一訳、河出書房新社)もさることながら、ホルクハイマーとアドルノの共著である『啓蒙の弁証法』(徳永恂訳、岩波文庫)と、ベンヤミンの「複製技術時代の芸術作品」(浅井健二郎編訳『ベンヤミン・コレクション1』所収、ちくま学芸文庫)が重要だ。前者は、アメリカの映画やラジオなど「文化産業」(メディア文化)をファシズムと同じような人間の商品化を含む大衆欺瞞であると指摘した著書。後者は、映画に代表される「複製技術」の可能性をファシズムに対抗させようとしたもので、前者とは逆の考え方のように読まれがちだが、相補的に読むべきメディア文化論だと思う。
「フランクフルト学派」第2世代では、ユルゲン・ハーバーマスが代表である。ハーバーマスの著書では『公共性の構造転換』(細谷貞雄・山田正行訳、未来社)と『コミュニケーション的行為の理論』(河上倫逸他訳、未来社)を読むべきだろう。前書は、17〜18世紀の西ヨーロッパにおける市民のコミュニケーションの場(公共圏)の成立を解析し、「世論」の場がいかに形成されたか、そのプロセスを論じたもの。後書は、社会を「システム的合理性」と「コミュニケーション的合理性」の2つの領域に分け、コミュニケーションによる新たな市民的公共圏の覚醒の必要性を論じたものである。
「フランクフルト学派」以外で、メディア論として読むべきは、フリードリヒ・キットラーだ。とりわけ彼の『グラモフォン・フィルム・タイプライター』(石光康夫・石光輝子訳、ちくま学芸文庫)は、19世紀に発明された蓄音機、映画、タイプライターの3つのメディア文化により、いかに近代主体が揺らいだかを分析した重要書である。またハーバーマスのコミュニケーション論を鋭く批判しているノルベルト・ボルツは多くの翻訳があり、とくに『意味に餓える社会』(村上淳一訳、東京大学出版会)が重要だろう。
カナダでは、トロント大学を拠点にメディア論を展開した「トロント学派」が有名である。第1世代は、マーシャル・マクルーハンを筆頭に、彼に影響を与えたハロルド・A・イニス、エリック・A・ハヴロック、ウォルター・J・オングら、第2世代はデリック・ドゥ・ケルコフらがいる。まずマクルーハン理論の理解をより深めるため、イニスの「独占−循環」に基づいたメディア論である『メディアの文明史』(久保秀幹訳、新曜社)、ハヴロックが声から文字へのメディアの変化がプラトン哲学を生んだと主張した『プラトン序説』(村岡晋一訳、新書館)、オングによる声と文字の文化、印刷、電子的なコミュニケーションを論じたメディア論である『声の文化と文字の文化』(桜井直文・林正寛・糟谷啓介訳、藤原書店)などを読んでおきたい。これらはマクルーハンのメディア論を表層的に捉えないためにも重要だろう。
マクルーハンの著書は日本で1960年代末に「マクルーハン旋風」が起こり当時翻訳された。まず『グーテンベルクの銀河系』(森常治訳、みすず書房)は、書物がどのように1つのメディアとして機能するかを分析し注目された出世作。つぎに『メディア論』(栗原裕・河本仲聖訳、みすず書房)は、メディアとは新聞やラジオ、テレビだけではなく、われわれの身体や精神、存在そのものの拡張であるとか、メディア同士の相互作用(異種交配)を論じたもの。そして死後の出版で息子のエリックとの共著『メディアの法則』(高山宏監修、NTT出版)は、メディアにはそれぞれ「強化」、「衰退」、「回復」、「反転」の4つの作用が内在し、それがメディアの法則だとしたものである。
マクルーハンといえば、テレビの登場で「触覚」が力をもつと予言したから、テレビの擁護者だとか、電子メディアの同時多発性によって実現する「地球村」(グローバル・ヴィレッジ)をユートピアであると考えた楽観主義者だとみる向きもある。しかしながらテレビの否定的機能もしっかり見定めており、一筋縄ではいかないメディア論者である。なおマクルーハンのメディア論を1990年代以降のインターネット時代へ解き放った良書が、ケルコフの『ポストメディア論』(片岡みい子・中沢豊訳、NTT出版)と、ポール・レヴィンソンの『デジタル・マクルーハン』(服部桂訳、NTT出版)である。これらも合わせて読みたい。
3.メディア・スタディーズの歴史(フランス)
フランスでは、記号学、構造主義、ポスト構造主義おのおののメディア論がある。まず現代の記号学を始めたのは、スイスの言語学者フェルディナン・ド・ソシュールである。ソシュールの考え方を端的にいえば、人間は(コミュニケーションにおいても)「記号」=意味を担ったものしか認識できないことと、「記号」はそれを取り巻く他の「記号」との「システム」(関係のネットワーク)の中でのみ意味を持ちうるといったものである。詳しくは『一般言語学講義』(小林英夫訳、岩波書店)を熟読してほしい。このソシュールの記号学をテクスト論などに組み替えた人物がロラン・バルトである。
バルトの著書はほぼすべて翻訳されており、とりわけソシュール言語学の基本概念である「言語体系」(ラング)と「個人言語」(パロール)の区別に依拠した『エクリチュールの零度』(森本和夫・林好雄訳、ちくま学芸文庫)、メディア文化論として読みうる『神話作用』(篠沢秀夫訳、現代思潮社)、記号学の出発点となる『表徴の帝国』(宗左近訳、ちくま学芸文庫)、テクスト論の決定版『テクストの快楽』(沢崎浩平訳、みすず書房)の4冊は必読である。またバルトらの記号学を、ジャック・ラカンの精神分析学と分離=接合して記号分析学としたのがジュリア・クリステヴァである。テクストを社会や歴史といった他のテクスト(外部)に開き「間テクスト性」なる概念を提示した『テクストとしての小説』(谷口勇訳、国文社)と、「意味生成性」の概念を導入した『詩的言語革命 第一部 理論的前提』(原田邦夫訳、勁草書房)が重要だろう。
構造主義とは、簡単にいえば個人/主体はさまざまな「構造」の結果にすぎないという考え方であり、ソシュール言語学やバルトらの記号学なども構造主義の一潮流である。その他ではルイ・アルチュセールとミシェル・フーコーが有名だ。アルチュセールはヘーゲル主義的ではないマルクス像を提示しマルクス研究を一新した人物であるが、イギリスのカルチュラル・スタディーズへ大きな影響を与えたのが「イデオロギー装置」という考え方である。メディアや文化などの「イデオロギー装置」は、他の「イデオロギー装置」である宗教、学校、法、政治などとともに相対的に自立運動をするために、イデオロギー(社会的観念の体系)は多様化する。その全貌は『再生産について』(西川長夫・伊吹浩一・大中一弥・今野晃・山家歩訳、平凡社)で分かる。
他方、フーコーの研究対象は「精神疾患」、「狂気」、「セクシュアリテ」など多岐にわたるが、メディア論との関係で重要なのが『監獄の誕生』(田村俶訳、新潮社)である。この本でフーコーは「パノプティコン」(一望監視施設)という仕掛けを分析し、監視されているという意識が身体に「書き込み化」され自発的な服従を生むという。近代の管理社会を「視線(まなざし)」を中心に機能していることを見事に看破した。フーコーの『監獄の誕生』は、規律=訓練を構造化している言説をも暴露したものであり、ポスト構造主義の文脈で語るべきだ。この流れでジャン・ボードリヤールとジャック・デリダのメディア論も取り上げておこう。
まずボードリヤールは、現代消費社会を記号学の視点から分析をおこなった人物で、マルクスの「価値形態論」を解釈し直した。誰もが差異のシステムと記号のコードに自分自身を記号化し「書き込み化」していると「記号生産型」社会を分析した『消費社会の神話と構造』(今村仁司・塚原史訳、紀伊國屋書店)と、あらゆる形態を差異の変調によって産み出し、現実的なものは差異のコードとシミュレーションが作り出した「ハイパーリアル」(現実の起源をもたない世界)に吸収されるとした『象徴交換と死』(今村仁司・塚原史訳、ちくま学芸文庫)の2冊は是非読んでおきたい。
他方、デリダはさまざまなテクストを「脱構築」的に読解し、エクリチュール(書く行為)を実践してみせた思想家である。メディア論との関係でいえば「テレコミュニカシオン」の概念が重要だろう。つまりコミュニケーションは必ずテレ=「隔たり」が存在し、現前せざる「差延」(いろいろな差異の産出運動)が作用している。たとえば絵葉書は配達という時間的な隔たりを有する文字による「テレコミュニカシオン」である。また蓄音機もサウンドを蓄積し、それを呼び出すという音による「テレコミュニカシオン」である(今だったらウォークマンやiPodもそうだ)。『絵葉書T』(若森栄樹・大西雅一郎訳、水声社)と『ユリシーズ グラモフォン』(合田正人・中真生訳、法政大学出版局)を読めば分かるだろう。
その他では、欧米にまたがる運動となったシチュアシオニスト・インターナショナルの理論家ギー・ドゥボールが、現代の情報資本主義を批判し「スペクタクルの社会」なる概念を提示した『スペクタクルの社会』(木下誠訳、ちくま学芸文庫)と、『スペクタクルの社会についての注釈』(木下誠訳、現代思潮新社)も重要である。またドゥルーズ/ガタリの『千のプラトー』(宇野邦一ほか訳、河出書房新社)に頻繁に引用されたポール・ヴィリリオの著書は多数翻訳されている。とくに映像と戦争のテクノロジーの並行性を論じた『戦争と映画』(石井直志・千葉文夫訳、平凡社ライブラリー)、サイバー情報化社会を鋭く批判した『電脳世界』(本間邦雄訳、産業図書)や『情報化爆弾』(丸岡高弘訳、産業図書)が必読である。さらにレジス・ドブレらが提唱したメディアに関する新しい学問=「メディオロジー」に関しては、『メディオロジー宣言』(嶋崎正樹訳、NTT出版)と『メディオロジー入門』(嶋崎正樹訳、NTT出版)に詳しい。
4.メディア・スタディーズの歴史(イギリス)
カルチュラル・スタディーズ(以下、CS)の創始者は、リチャード・ホガード、エドワード・P・トムソン、そしてレイモンド・ウィリアムズの3人である。このうち、メディア論で重要なのがホガードの『読み書き能力の効用』(香内三郎訳、晶文社)であることに異論はないだろう。この著書は、アメリカ文化とマス・メディアが、いかにイギリスの労働者階級の有機的な文化を平準化しているかを研究したものである。またウィリアムズの『長い革命』(若松繁信・飯尾剛光・長谷川光昭訳、ミネルヴァ書房)は、イデオロギーや言説にも関心を寄せたメディア文化論である。彼の『テレビジョン』は翻訳されてないものの、テレビ番組で連続された映像を次々と見せつけることで、オーディエンスはその番組に釘付けにされるという「フロー」(流れ)概念が重要であろう。フランスの社会学者ピエール・ブルデューの『メディア批判』(櫻本陽一訳、藤原書店)におけるテレビの「象徴暴力」のメカニズム分析とともにメディア批判の古典だと思う。
CSは、1964年に創設されたバーミンガム大学の「現代文化研究センター」(CCCS)が拠点であった。ここの初代所長がホガードで、その後を継いだのがスチュアート・ホールであり、彼の影響力のあるメディア論が、未邦訳の論文「メディア言説のコード化/脱コード化」と「コード化/脱コード化」である。英語圏のメディア論は「シャノン=ウィーバー・モデル」に代表される「送り手→メディア→受け手」といった公式であった。この公式への疑問から、アルチュセールの重層決定論を援用して、送り手のメッセージのコード化と、受け手の脱コード化(解釈)は、過剰に決定され、相対的に自律した契機であるとした。またイタリアのマルクス主義者アントニオ・グラムシの「ヘゲモニー」論(デイヴィド・フォーガチ編『グラムシ・リーダー』、東京グラムシ研究会監修・訳、御茶の水書房)に準拠して、オーディエンスの立場を、@支配的=ヘゲモニー的な立場、A交渉的な立場、B対抗的な立場の3つに分類した。
この「コード化/脱コード化」の仮説は、デヴィット・モーリーが『ネイションワイド・オーディエンス』(未邦訳)においてイギリスの娯楽情報テレビ番組『ネイションワイド』の分析に使われている。モーリーは、オーディエンスの職業や階級、人種、家族構成といった社会的コンテクストから、メディア論を展開した。またジョン・フィスクもテレビを中心としたメディア論を展開し、『テレビジョンカルチャー』(伊藤守・藤田真文ほか訳、梓出版社)と、ジョン・ハートレーとの共著『テレビを“読む”』(池村六郎訳、未来社)が翻訳されている。2人ともアメリカやオーストラリアで高い評価を受けているが、モーリーとの違いは、フィスクの場合、文化記号学的な視点からメディア分析をしているところだ。『抵抗の快楽』(山本雄二訳、世界思想社)も合わせて読めばより理解が深まるだろう。
CSのメディア論の特徴は「オーディエンス」研究が多いことである。翻訳はされてないが、ドロシー・ホブソンの『クロスロード』、イエン・ヤングの『ダラスを観る』、ジャニス・ラドウェーの『ロマンスを読む』などは、ソープ・オペラ(日本でいう昼ドラ)やロマンス(大衆文学)を「オーディエンス」がどのように消費するかを分析したものだ。CS系のメディア研究としては、グラスゴー大学の「メディア・グループ」(GUMG、ジョン・エルドリッジ、ポール・ウォルトンなど)や、映画雑誌『スクリーン』も重要である。またCS以外に、イギリスにはグラハム・マードックやジェレミー・タンストルらのメディア社会学の流れもある。この辺りの詳細に関しては、グレアム・ターナー『カルチュラル・スタディーズ入門』(毛利嘉孝ほか訳、作品社)、吉見俊哉『カルチュラル・スタディーズ』(岩波書店)、吉見俊哉編『メディア・スタディーズ』(せりか書房)、吉見俊哉編『知の教科書 カルチュラル・スタディーズ』(講談社選書メチエ)などを是非参考にしてほしい。
「オーディエンス」研究以外のCSのメディア論に、メディア・スタディーズの入門書的なロジャー・シルバーストーンの『なぜメディア研究か』(吉見俊哉・伊藤守・土橋臣吾訳、せりか書房)、広告を記号学やフェミニズムの視点で分析したジュディス・ウィリアムソンの『広告の記号論』(山崎カオル・三神弘子訳、柘殖書房)、ウォークマンを題材にしたポール・ドゥ・ゲイの『実践カルチュラル・スタディーズ』(暮沢剛巳訳、大修館書店)、電子メディアにおける「視覚帝国主義」を批判して映像の中の事件を解読したケヴィン・ロビンスの『サイバー・メディア・スタディーズ』(田畑暁生訳、フィルムアート社)、アメリカの映画『エイリアン』シリーズやマドンナのPVなどメディア文化を分析したカーラ・フレチェロウ(米)の『映画でわかるカルチュラル・スタディーズ』(ポップカルチャー研究会訳、フィルムアート社)、現代文化における有名人システムを分析したピーター・デイビッド・マーシャル(米)の『有名人と権力』(石田佐恵子訳、勁草書房)、教育の現場におけるメディア・リテラシーをテーマとしたデビッド・バッキンガムの『メディア・リテラシー教育』(鈴木みどり監訳、世界思想社)などがある。これらを通読すれば、メディア・スタディーズがいかに多様であるかが分かるだろう。
5.メディア・アクティヴィズム
ここで視点を変えて、メディア・アクティヴィズムも紹介しておこう。先に述べたように、メディア・スタディーズを学ぶことは、その知識を実践してわれわれ自身が情報の送り手になることでもあるからだ。メディア・アクティヴィズムの古典は、マイケル・シャンバーグとレインダンス・コーポレーションの『ゲリラ・テレビジョン』(中谷芙二子訳、美術出版社)である。「ゲリラ・テレビジョン」とは、情報資本主義社会に対抗して市民がオルタナティヴなメディアを作ろうという考えだ。この本の原著は1971年に刊行されており、それ以降のアートを含めたメディア・アクティヴィズムに大きな影響を与えた。
またアメリカでは、翌72年にケーブルTVにパブリック・アクセス・チャンネル(市民が使用できる専用チャンネル)の設置を義務づけた。その結果、ニューヨーク大学のジョージ・ストーニーを中心に「ビデオ・アクセス運動」が起こり、1982年までに1000以上のコミュニティがパブリック・アクセスの局をもつようになった。とくに有名なのが、ディディ・ハレックのペーパー・タイガーTVで、ニューヨークの商業局マンハッタンTVにおいて、毎週水曜日午後8時半から9時まで放映された。1985年からはケーブルや衛星のデジタル回線を利用した「ディープ・ティッシュ・プロジェクト」を開始し、各局に届けられたビデオを編集・放映したが、その内容は人種やジェンダー、環境問題などアクチュアルな問題が多かった。
他方、日本では粉川哲夫がアメリカの「ビデオ・アクセス運動」以外に、イタリアやフランスの「自由ラジオ運動」(サラエボのラジオ局B92などもこの流れを汲む)を紹介し、合法的な自由ラジオの方法を教示した。こうした「ビデオ・アクセス運動」や「自由ラジオ運動」は、メディアを用いた社会運動=メディア・アクティヴィズムである。たとえばドロップアウトTVの遠藤大輔は、新宿西口のホームレス排除や三宅島の夜間離発着訓練、沖縄米軍基地、エイズ問題などを取り上げた。またWithout-TVの土屋豊は、『あなたは天皇の戦争責任についてどう思いますか?』2部作において、天皇の戦争責任や象徴天皇制について新宿の街頭や靖国神社でインタビューを行い、洗練された編集によりメディア・アクティヴィズムの可能性を認知させ、その後 「民衆のメディア連絡会」とのプロジェクトとして「ビデオアクト」(Video Act!)なる団体を立ち上げた(AcTVという動画を見るサイトもある)。
メディア・アクティヴィズムは、たしかに失敗も多い。また急速にパソコンが普及し、ネットワーク社会が浸透している現在、オルタナティヴなメディア空間は、ラジオやテレビ、ビデオよりも、サイバー・スペースに場所を譲りつつあることも事実だ。ブログや動画投稿サイト、SNS(ソーシャル・ネットワーキング・サービス)などは、ある種のオルタナティヴなメディア空間だが、匿名掲示板からなるヴァーチャル・コミュニティの人気を考えても分かるように、理想的な公共圏の創設の道のりは遠い。そう考えると、新たな公共圏は、オープンでありながらクローズで、リアルとサイバーの中間にある「第3の空間」にしか創設できないのかもしれない。新しいメディアと試行錯誤しつつ、問題が起これば即座に対処し、リアル・ワールドとサイバー・スペースに存在する他者とコミュニケートする。そのようなしなやかなメディアとの付き合い方が、新しい社会運動(たとえば環境保護運動やクイア運動など)と連動するとき、メディア・アクティヴィズムは起こる。ハキム・ベイの『T.A.Z.』(箕輪裕訳、インパクト出版会)における「一時的自律ゾーン」なる概念を21世紀の新しい視点から捉え直すことをお勧めしたい
up!!★日本語で読める文献案内
レズビアン/ゲイ・スタディーズやクイア・スタディーズは、比較的新しい学問の潮流である。したがって翻訳されてない著書が大多数を占めている。とはいえ最近徐々に日本語で読める文献も増えてきたことも確かだ。また性的マイノリティの人権について書かれたものや、当事者の声を反映した著書も刊行されている。そこでこれらの問題に興味をもつ読者のために推薦書を紹介する。
1.レズビアン/ゲイ・スタディーズ
1960年代末から80年代にかけて欧米のレズビアンとゲイメンの運動は大きく盛り上がったが、その運動を支えた理論がレズビアン/ゲイ・スタディーズである。とりわけデニス・アルトマンの仕事が重要であるが、邦訳書が少なく今のところ単著は『グローバル・セックス』(原書2001年、河口和也・風間孝・岡崎克樹訳、岩波書店、2005年)のみが翻訳されている。『グローバル・セックス』は、セクシュアリティとグローバリゼーションとの交錯する地点で、セクシュアリティやジェンダー研究に、政治経済的な観点を導入し、従来考えられてこなかった諸問題に切り込んだ著書である。
他方、ラディカル・フェミニズムは、それまで女性運動の陰に隠れていたレズビアンの存在を目に見えるものとし、レズビアン・フェミニズムに影響を及ぼした。レズビアン・フェミニズムの基本的姿勢を表した概念が、アドリエンヌ・リッチの「レズビアン連続体」であり、これは「強制的異性愛」に抵抗する女同士の絆を指す。エッセイ「強制異性愛とレズビアン存在」が収録された『血、パン、詩。アドリエンヌ・リッチ女性論』(原書1986年、大島かおり訳、晶文社、1989年)が重要である。
2.クイア・スタディーズ
1990年代になるとクイア理論が登場する。クイア理論に大きな影響を与えたのがフランスのポスト構造主義哲学者ミシェル・フーコーの一連の仕事である。とりわけ、いかにして「知(学問体系)」が「セクシュアリティ」に関して規範化を遂行してきたかを考察した『性の歴史T 知への意志』(原書1976年、渡辺守章訳、新潮社、1986年)における「ビオ・ポリティックス」という概念が重要である。このフーコーの権力とセクシュアリティの理論を、クイア理論へ向けて解き放った著書が、デイヴィッド・M.・ハルプリンの『聖フーコー−ゲイの聖人伝に向けて』(原書1995年、村山敏勝訳、太田出版、1997年)であり、ポスト・フーコーの第一人者と呼ばれるジェフリー・ウィークスの『セクシュアリティ』(原書1986年、河出書房新社、1996年)ともども必読である。
クイア理論の骨子ともいえるのがアイデンティティの脱構築であろう。この点ではジュディス・バトラーが、ジェンダーとはアイデンティティを構築していくパフォーマティヴなものであると看破した『ジェンダー・トラブル−フェミニズムとアイデンティティの攪乱』(原書1990年、竹村和子訳、青土社、1999年)が重要であろう。バトラーのいう「ジェンダー=パフォーマンス性」理論は大きなインパクトを与えたが、それと並んでイヴ・コゾフスキー・セジウィックのホモソーシャル理論も有名である。ホモソーシャルは、父権制社会に有機的構造を与える男同士の交換体系を指すが、それがホモフォビアやミソジニーに支えられているという議論を展開した。セジウィックの著書に『男同士の絆−イギリス文学とホモソーシャルな欲望』(原書1985年、上原早苗・亀沢美由紀訳、名古屋大学出版会、2001年)や『クローゼットの認識論−セクシュアリティの20世紀』(原書1990年、外岡尚美訳、青土社、1999年)がある。
その他のクイア理論では、ゲイのアイデンティティの問題をS/Mを交えて論じるなどしたレオ・ベルサーニの『ホモセクシュアルとは』(原書1995年、船倉正憲訳、法政大学出版局、1996年)や、コンパクトにフーコーからバトラー、セジウィックなどのクイア理論をまとめたタムシン・スパーゴの『フーコーとクイア理論』(原書1999年、吉村育子訳、岩波書店、2004年)なども意義深い。
3.歴史
古代ギリシアにおいては、ホモセクシュアルは自明なことで美学的にも望ましいと見なされた。デイヴィッド・M.・ハルプリンは、現代の直面している問題を踏まえた上で、フーコーの歴史社会学やクリステヴァらポストモダン・フェミニズム理論を援用し『同性愛の百年間−ギリシア的愛について』(原書1990年、石塚浩司訳、法政大学出版局、1995年)を著した。社会構築主義の立場である。他方、古代から中世までのヨーロッパにおけるキリスト教とゲイ・ピープルとの関係を追跡したジョン・ボズウェルの『キリスト教と同性愛−1〜14世紀西欧のゲイ・ピープル』(原書1980年、大越愛子・下田立行訳、国文社、1990年)では、ゲイ・ピープルの広範囲にわたる実践と、彼らへの厳しい処罰があった歴史がよく分かる。
ジョン・ボズウェルの『キリスト教と同性愛』からの引用が多くあるのが、ポール・ラッセルの『ゲイ文化の主役たち−ソクラテスからシニョリレまで』(原書1995年、米塚真治訳、青土社、1997年)である。この著書は古今東西のゲイとレズビアンの100人を取り上げた人物辞典で理解を深める上で格好の書である。この『ゲイ文化の主役たち』ではレズビアンをかなり多く取り上げ紙面をさいているが、より詳しくレズビアンの歴史を知るためには、アメリカ100年の女性愛の歴史を扱ったリリアン・フェダマンの『レスビアンの歴史』(原書1991年、富岡明美・原美奈子訳、筑摩書房、1996年)が格好の書である。
4.トランス
肉体的に女あるいは男でありながら、自分のジェンダーに違和感をもつ広義の「トランスジェンダー」の中でも、レズビアンSMフェミニストとして活動し、性別適合手術をへてFTMトランスの立場になったパトリック・カリフィアの著述した本は多数翻訳されている。とりわけ『セックス・チェンジズ−トランスジェンダーの政治学』(原書1997、2003年、石倉由・吉池祥子他訳、作品社、2005年)は、20世紀のTGの歴史、フェミニストとの軋轢、TG内部での相克を描いており必読である。
西洋流の「2つの性/2つのジェンダー」というモデルは、決して普遍的なものではないことは、人類学などの知見から証明されている。とりわけインドのアウトカーストであるヒジュラを通して「第3のジェンダー」の可能性を探ったセレナ・ナンダの『ヒジュラ−男でも女でもなく』(原書1990年、蔦森樹/カマル・シン訳、青土社、1999年)と、ニューギニアのサンビア族をはじめとした第三世界の同性関係を扱ったギルバート・ハートの『同性愛のカルチャー研究』(原書1997年、黒柳俊恭・塩野美奈訳、現代書館、2002年)からは多くのことを学ぶことができる。
5.科学
ホモセクシュアリティの科学的な「原因」の究明は、遺伝子、ホルモン、脳の性分化などにおけるヘテロセクシュアルとの差異といったところに帰着する。生物学的決定論で本質主義との批判もあるが、自身がゲイであるサイモン・ルベイが、脳の科学におけるセクシュアリティの話題をまとめた『脳が決める男と女−性の起源とジェンダー・アイデンティティ』(原書1993年、新井康允訳、文光堂、2000年)と、『クィア・サイエンス−同性愛をめぐる科学言説の変遷』(原書1996年、伏見憲明監修、玉野真路・岡田太郎訳、勁草書房、2002年)は非常に慎重に議論を行っており大きな意義を有している。
6.人権
アムネスティ・インターナショナルが、性的マイノリティに対する人権侵害の事例を世界各地から集めたのが、『セクシュアリティの多様性を踏みにじる暴力と虐待−差別と沈黙のはざまで』(原書2001年、アムネスティインターナショナル日本ジェンダーチーム訳、現代人文社、2003年)である。性的マイノリティを保護するための各国政府や非政府組織(NGO)への勧告もあり、グローバルな人権擁護を呼びかけている。
こうした性的マイノリティの人々の権利擁護の姿勢を、日本の学校教育の場にも反映させ、社会が抱える偏見や差別と闘うことが重要であることは言うまでもない。そういう意味で“人間と性”教育研究所が編集した『同性愛・多様なセクシュアリティ−人権と共生を学ぶ授業』(子どもの未来社、2002年)と、セクシュアルマイノリティ教職員ネットワークの編になる『セクシュアルマイノリティ−同性愛、性同一性障害、インターセックスの当事者が語る人間の多様な性』(明石書店、2003年)は、セクシュアリティをめぐる現実と課題が明示されており、意識を変革することによって多様な性を認め合う共生社会の創出につながるということがよく分かる。
7.その他
性的マイノリティ当事者の声を反映したもの、レズビアン/ゲイ・スタディーズやクイア理論を整理した重要な論集、東京で開催されたレズビアン/ゲイ・パレードの記録、雑誌の特集など、まだまだ読むべき文献がある。とりわけ、以下のものが重要であるので推薦する。
掛札悠子『レズビアンである、ということ』(河出書房新社、1992年)
平野広朗『アンチ・ヘテロセクシズム』(パンドラ/現代書館、1994年)
キース・ヴィンセント、風間孝、河口和也『ゲイ・スタディーズ』(青土社、1997年)
キース・ヴィンセント、風間孝、河口和也編『実践するセクシュアリティ−同性愛・異性愛の政治学』(動くゲイとレズビアンの会、1998年)
河口和也『クイア・スタディーズ』(岩波書店、2003年)
伏見憲明『ゲイという[経験]増補版』(ポット出版、2004年)
ミケランジェロ・シニョリレ『クイア・イン・アメリカ−メディア、権力、ゲイ・パワー』(原書一九九三年、川崎浩利訳、パンドラ/現代書館、1997年)
砂川秀樹編『パレード−東京レズビアン&ゲイパレード2000の記録』(ポット出版、2001年)
現代思想1997年5月臨時増刊号「レズビアン/ゲイ・スタディーズ」(青土社)
ユリイカ1996年11月号「クィア・リーディング」(青土社)
ユリイカ1998年2月号「ポリセクシュアル」(青土社)
イマーゴ1991年8月号「レズビアン」(青土社)
イマーゴ1995年11月号「ゲイ・リべレーション」(青土社)
イマーゴ1996年5月号「セクシュアリティ」(青土社)
クィア・ジャパンVol.1「メイル・ボディ クィアの90年代」(勁草書房、1999年)
クィア・ジャパン Vol.2「変態するサラリーマン 表現のセクシュアリティ」(勁草書房、2000年)
クィア・ジャパン Vol.3「魅惑のブス」(勁草書房、2000年)
クィア・ジャパン Vol.4「友達いますか?」(勁草書房、2001年)
クィア・ジャパン Vol.5「夢見る老後!」(勁草書房、2001年)
クィア・ジャパン・リターンズ Vol.0「Generations/Realities」(ポット出版、2005年)