Philippe Lacoue-Labarthe(1940〜2007)

up!!★フィリップ・ラクー=ラバルト『メタフラシス−ヘルダーリンの演劇』(原書1983年、高橋透・吉田はるみ訳)、未來社
恍惚は、悲劇においては「空虚」である。−そしてこの点においてこそ、恍惚はまさしく悲劇的なのである。悲劇的なものとは恍惚ではなく、空虚な……恍惚である。この空虚とは、恍惚それ自身による「無限の一体化」を「浄化」ないし「無限に分離」すること以外のなにものでもないのだ。この空虚が、カタルシスの場であり、カタルシスの地点なのである。そして実際、まさにここにおいて、悲劇の意味、すなわち表象(Vorstellung)が、闘争的なもの、相反するものの終わりなき喧噪、対立の果てしなき「二」拍子のリズムから引き離されて、表出されるのである。

up!!★フィリップ・ラクー=ラバルト『近代人の模倣』(原書1986年、大西雅一郎訳)、みすず書房
人間の本質つまりDa-seinのDaとは、存在ないし真理(アレテイア[真性、非秘匿、非忘却])の定立=創立[these]であって、定立=創立はそれゆえ第一に芸術作品なのである、なぜなら、芸術は本質的にDichtung[根源的詩作]すなわち言語[langue]であるからだ。同じくこの理由から、人間の本質は言語(作用)[langage]であるのだが、この言語(作用)とは、ハイデッガーがちょうど「人間とは誰か?」という問いの解明に向けてヘルダーリンに加護を求めるときに……ヘルダーリンの言葉として力説している語句にあるような「あらゆる財宝のうちでもっとも危険なもの」である。そして以上のことから、なおもヘルダーリンを拠りどころとしつつ……つぎのことを忘却してはならない。つまり、芸術作品それじたいが、Unheimlich[不気味なるもの]およびUngeheuer[法外なるもの]と呼ばれたことになると思われ、そのようにして芸術作品は衝撃を実行し「打撃」(Stoss)を与えるのであるが、この衝撃によってこそ、何がしかの存在者……がある[存在する]ということが開示され、また衝撃のうちにこそ、この存在者は存立するのだ。


up!!★フィリップ・ラクー=ラバルト+ジャン=リュック・ナンシー『ナチ神話』(原書1991年、守中高明訳)、松籟社
われわれの注意を引くべきは、ナチ神話に特有の構築である。それはつまり、ナチ(党員)たちの神話をではなく、ナチズムを、神話としての国民−社会主義そのものを表現しているところのものに特有の構築、ということだ。ナチズムの特性とは(また多くの点でイタリア・ファシズムのそれは)、おのれ自身の運動、おのれ自身のイデオロギー、そしておのれ自身の国家を、一個の神話の実効性ある現実化として、あるいは一個の生きた神話として提示した点にある。


up!!★マルティン・ハイデガー+フィリップ・ラクー=ラバルト『貧しさ』(原書1994, 2004年、西山達也訳・解題)、藤原書店
ハイデガーが、それまでつねにドイツのみについて言及してきたことを、この日付(引用者註、1945年6月27日)において、この状況下で、昔ながらのヨーロッパ西洋、あるいは婉曲的にいえば、彼自身がずいぶんと軽視してきた「世界市民主義」のヨーロッパ西洋へと移し替えたということであって、その例はすでに先ほど確認したとおりである。戦略的な後退はあまりに見え透いていて、そのナイーヴさは落胆を誘うほどである。それは実際に嘆かわしいものであるが、これ以降、ハイデガーはこの地点にあくまで固執しつづける。


up!!★フィリップ ラクー・ラバルト『ハイデガー 詩の政治』(原書2002年、西山達也訳・解説)、藤原書店
詩とは、原−倫理的な行為なのである。これは、ロマン主義者たちが「反省」と呼んでいたものの次元であり、さらに言えば、ある程度までは「詩作の詩作」という−ハイデガー的な−次元である。ここでの「詩作の」という被制辞は、純粋な自動詞性の被制辞である。ベンヤミンの読解に従うならば、詩作の勇気とは、神話論的なものから離れ、決別し、それを脱構築することを言う。詩作の勇気とは、詩を創出し、〈詩〉を、それが証言であるかのようなものとして形象化する勇気なのである。……他方で、問題となるのは、目的格的属格である。勇気とは、詩作[するということ]が他動詞的な(預言的あるいは天使的な)機能において保持しなければならない勇気であり、それによって、詩作は、世界の危険と対峙し、果たされるべき課題を告げるのである。そのとき、倫理的な行為は、〈詩〉そのものというよりは、むしろ、〈詩〉が課題として指示しているところのものであるだろう。倫理と異なり、原−倫理は、善なるものが何であるかを知らない倫理である以上、もはや問題は、原−倫理の次元にはないのかもしれない。