Antonio Negri(1933〜)

up!!★フェリックス・ガタリ+トニ・ネグリ『自由の新たな空間−闘争機械』(原書1985年、丹生谷貴志訳)、朝日出版社
現代の生産の基本的基礎は被保障者と無保障者の切れ目のない混合、混成からなる流動する大衆の上に成立していることは言うまでもない。しかし、何よりもこうした無保障者層こそが資本主義の権力設営の基本的な支えを形成しているのである。というのも、無保障者層の存在においてこそ資本主義的権力はその形成原理である抑圧と周縁化システムの堅固さを確認しているからである。実際、無保障者層は支配層と一種の対位法的関係を結んでおり、無保障者はかれらが担う生産価値、生産潜在力によって、資本主義的権力と搾取の現在の新たな枠組みにおける基本的な社会的役割を担わされているのである。こうした現実にたいして付け加えておくべきだろう。すなわち、無保障者層こそが特異/固有化への生成変化を結集させる想像力と闘争の戦線を形成しうる者たちであり、労働の集団的力を営倉化し操作する巨大な機械を分解する新たな目標、新たな実践を白昼へと置く闘争の前線を形成すべき者たちである。


★アントニオ・ネグリ『転覆の政治学 21世紀へ向けての宣言』(原書1989年、小倉利丸訳)、現代企画室
ポストモダニズムにおいて、あるいはむしろマルクスの「実質的包摂」において、空間的なものは絶対的なフレキシビリティをもつものとして特徴づけられる。全ての社会的主体は、労働日や間主体的なコミュニケーションの監視同様フレキシブルである。これらの条件は、土台に関わり、土台を限定する。こうして、ポストモダニズムでは、定義によれば、主体は完全に可動的でフレキシブルである。最後に、完全に抽象的な土台は、生産、消費、知、そして社会転換と平等への欲望によって規定されてきた。これらのいずれも、明らかなことだが、等価で交換可能な諸個人を生み出す。反対に、こうした抽象的な質は、コミュニケーション的な潜在能力の世界のなかで結び付けられ、そしてこの集合的で、人間的で、コミュニケーション的な潜在能力が特にその実体をなす。真のパラドクスは、人間の性質が可動的でフレキシブルになればなるほど、生産的な能力は一層抽象的になり、世界と主体はいっそう集合的になるということである。


up!!★アントニオ・ネグリ『構成的権力−近代のオルタナティブ』(原書1997年、杉村昌昭・斉藤悦則訳)、松籟社
かくして、われわれの探求のあらゆる糸が結びあわされていく。脱ユートピアの形態としての構成的権力は政治的なものの特異的で還元不可能な概念を提示するところとなるが、それは同時にそのような概念に劣らず特異的なある方法、ある歴史哲学、ある倫理を構築し、それらすべてを結びあわせる。この方法はラディカルな系譜的直観にそって対象を再構築するというものであるが、これは知、その対象、その主体を欲望の力をもとにして形成し、それらを多数性の網の目のなかで結びつけるというラディカルな帰納的方法である。これは多様性というとらえがたい概念ではなくて、多数性であり、存在の全体的な変移性、多方向の特異性である。単に千のプラトーであるばかりではなくて、千の方向、千の網、千の変数である。そして、主体はこの諸次元において構築される。しかし、もし否定性、危機、抵抗といったものが、多数性に対して危機をその中心的な決定因として回収することを可能にしなければ、その構築は不可能であろう。この危機と否定性のキーポイントを中心として、そして明瞭に異なった時間性の時ならぬ出現とラディカルな発見を通して、多数性は着実にみずからの力を知るように導かれるのである。この方法は単に静態的に構成的であるばかりでなく、動態的に構成的でもある。なぜなら、ここで、主体性は運動とその無限の決定作用の人工装置であり、それはある絶対的な出来事として到来するからである。
引用者註
多数性は、マルチチュードの訳語


★トニ・ネグリ『未来への帰還 ポスト資本主義への道』(原書1998年、杉村昌昭訳)、インパクト出版会
不法滞在者の闘争は私の見るところ根本的な何かを指し示している。ひとつの市民的権利の要求、まぎれもない生−政治的強度をもった領土の上に存在することへの権利要求である。移動する人々のための市民権のラディカルな要求であり、いまや一般的になったこのような状況の政治用語への最初の翻訳であるという点で、国家的な法秩序に対して転覆的要素を体現する要求でもある。彼らは労働しているのだし、統合された世界労働市場の内部で移動したのだから、法を求め、市民権を要求するのは当然のことである。つまり、世界的生産の新秩序の政治的亀裂と、そこから派生する運動の再構成の過程が生じているということなのである。正真正銘の世界市民であることを想像すること、そしてもはや労働者のインターナショナルではなくて、自由であろうとするすべての人々のひとつの共同体を実現すること、これに成功しなければならないだろう。セルジオ・ボローニャが言っているように、不法滞在者の闘いは《無国籍者の民主主義》を予示しているのである。


up!!★アントニオ・ネグリ、マイケル・ハート『〈帝国〉−グローバル化の世界秩序とマルチチュードの可能性』(原書2000年、水嶋一憲・酒井隆史・浜邦彦・吉田俊実訳)、以文社
〈帝国〉的権威の新しいグローバルな政体構成において、合衆国が特権的な位置を占めているのには多くの理由がある。合衆国の役割(とくに軍事的な役割)の連続性−すなわち、ソヴィエト連邦との戦いのなかでとっていた中心的な形象から、新たに統一された世界秩序のなかでとっている中心的な形象への連続性−によって、それを部分的に説明することも可能かもしれない。しかし、私たちがここで跡づけている政体構成史の視座からすれば、私たちは合衆国が、それ自身の憲法〔国制〕がもつ〈帝国〉的傾向によって、より重要な仕方で特権化されているということを見て取ることができる。ジェファソンが述べたように、合衆国憲法は拡張的な〈帝国〉のためにもっともうまく工夫されたものなのだ。いま一度私たちは、この憲法が〈帝国〉的なものであって、帝国主義的なものではないということを強調しておくべきだろう。それが〈帝国〉的なのは、合衆国の立憲的〔政体構成的〕プロジェクトが(自己の権力をつねに閉じた空間の内部で単線的に拡大し、支配下にある国々を侵略し破壊し、それらをその主権の内部に包摂するような、帝国主義的プロジェクトとは対照的に)、開かれた空間を再節合し、限界のない領野を横断するネットワークのなかで多様にして特異な諸関係を絶えまなく再発明してゆくようなプロセスをモデルにして構築されているからなのである。

対抗的である人びとは、みずからの人間的条件の局地的かつ個別的な制約から逃れながら、さらに新しい身体と新しい生を構築することをたえず試みなければならない。……今日、私たちは何よりもまずそれを、ジェンダーとセクシュアリティに関する身体的関係や配置に認めることができる。ジェンダー間および各々のジェンダー内部の身体的・性的諸関係にまつわる慣習的な諸規範は、ますます挑戦と変容にさらされるようになっている。諸々の身体そのものが、変容や突然変異を遂げることによって、新しい脱人間的な身体を創出しているのである。こうした身体的変容の第一の条件となるのは、人間的自然はけっして全体としての自然から切り離すことはできないということ、そしてまた、人間と動物、人間と機械、男性と女性等々のあいだに固定した必然的な境界など存在しないということを認めることである。すなわちそれは、自然そのものがたえず新たな変異・混交・混成化へと開かれた人工的領域である、という認識をもつことなのだ。私たちは、たとえばドラァグな服装をすることで意識的に伝統的な諸境界を攪乱するばかりではなく、境界の隙間を境界など顧みずに移動し、創造的かつ不確定な帯域の真只中を移動しているのである。今日における身体の変異は、人間学的脱出を構成するものであり、〈帝国〉的文明に「対抗する」共和主義を形成するための、途方もなく重要ではあるがいまだかなり曖昧な要素を表している。

〈帝国〉という文脈において私たちがもっとも注目したいのは、もっとも弱い立場の人びと、みずからを代表することができない人びとを代表しようと格闘している少数のNGOである。一括して人道主義的組織と特徴づけられることもあるそれらのNGOは、じっさい現代のグローバル秩序においてもっとも強力で優勢になった組織でもある。じつのところ、それらの組織の要求は限られた集団の個別利害を促進させようというものではない。むしろ、直接にグローバルで普遍的な人間の利害を代表しようとするものなのだ。人権団体(アムネスティ・インターナショナルやアメリカス・ウォッチのような)、平和団体(平和の証人やシャンティ・セーナ)、そして飢餓救済団体(オックスファムや国境なき医師団)などは総じて、拷問、飢餓、虐殺、投獄、政治的暗殺などに対して人間の生命を守るものである。それらの組織の政治活動は普遍的道徳の要求に足場をおいている−ここで賭けられているのは生それ自体なのである。


★アントニオ・ネグリ『ネグリ 生政治的自伝−帰還』(原書2002年、杉村昌昭訳)、作品社
現実的なもののなかに絶対に飛び込まねばなりません。そこに突進し、突入しなければなりません。なぜなら、それが世界を変える唯一の方法だからです。〈生〉とは、それ以外のなにものでもありません。世界を変え、変形し、発明するということです。世界を革新するということです。とはいえ、世界を改めて再建しはじめるために、私はいかに大きな犠牲をはらわねばならなかったことでしょうか。〈帰還〉がなしとげられた今、私はゼノンのパラドックスを決定的に忘れ去ることができます。私はよく歩きます。〈帰還〉とは、再び歩きはじめることです。すべての袋小路から出ることです。そして、それはまた、とりわけ、挫折によって粉砕された情熱を呼び戻すことでもあります。ですから、想い出は少なく、新しい経験は多く、ということです。未来は古い心臓をもってはいません。未来は、われわれが毎日創りだすものであり、したがって、それは常に新しいのです。再開するということ、それは後戻りするということではありません。……それは起源を再発見するということです。


★アントニオ・ネグリ『〈帝国〉をめぐる五つの講義』(原書2003年、小原耕一+吉澤明訳)、青土社
われわれは、唯一の主権体系に結合された三つの古典的統治形態−君主政治、貴族政治、民主政治−の交替を克服するものとして〈帝国〉が考えられている古代ローマ像から、〈帝国〉概念を借用しよう。事実、われわれの時代の〈帝国〉は君主政体的であって、このことはなによりも軍事紛争のときにとりわけ明瞭になる。軍事紛争の際に、実際上どの程度にペンタゴンがその原子兵器とその優れた軍事技術をもって世界を支配するのかを、われわれは見ることができるからだ。世界貿易機関(WTO)、世界銀行、国際通貨基金(IMF)のような超国家的な経済制度も、時折グローバルな取引に関して君主政体的統治を実行している。しかしわが〈帝国〉は、純粋に貴族政治的なものである。つまり、限定されたエリートの代行者集団によって統治される貴族政治なのである。ここで中心的なのは諸国民国家の権力である。というのは、少数の支配的国民国家が、一種の貴族政治的統治を媒介としてグローバルな経済的・文化的流れを運営することができるからである。こうした諸国家の貴族政治は、たとえばG8諸国の会合の際や国連安保理がその権限を行使する際にはっきりと示される。その上、最も重要な超国家的諸企業体は、調整し合いながらあるいは衝突しながら一種の貴族政治を構成する。最後に、……〈帝国〉がグローバルな人民を代表するのだと主張する意味で、帝国は民主的でさえある。支配的な国民国家も支配される国民国家も含め国民国家グループ全体が、ここではそれら諸国民国家がどれだけそれぞれの人民を何らかの形で代表しているか、その程度によって主要な役割を行使するのである。国連総会はおそらくこの諸国家の民主主義の最も顕著なシンボルであろう。しかし諸国民国家が事実上それぞれの人民を適切に代表しているとわれわれが認めないならば、非政府系組織(NGO)を民主的な制度あるいは代表的制度とみなすことは可能である。民主的ないし代表的な機構としての様々なNGO組織の機能は、きわめて複雑かつ重要な問題であってこの場で適切な形で扱うことができるとは考えない。要するに〈帝国〉は、その論理の内部で君主政治、貴族政治、民主政治という三つの古典的な統治形態あるいはレベルのすべてを包含する唯一の主権的主体なのである。


★トニ・ネグリ『芸術とマルチチュード』(原書2005年、廣瀬純+榊原達哉+立木康介訳)、月曜社
メタモルフォーズの身体とは、したがって、道具を再領有化した(ネットワークと脱出とを通じて、人工補綴というかたちで、自分のものにした)身体のことなんだ。人間の歴史とは、さまざまな器具が構築され続けていく推移のことであり、また、そうして構築された諸器具を通じて、丸裸である−きわめて特異的なかたちで無防備である−という人間の貧しい実存が実践的に分節化され続けていく推移のことなんだ。今日、道具−人間と自然とを結びつける器具−は、人間それ自身によって作られ、人間の行動によって/のなかに吸収されるという傾向を、ますます強めている。さまざまな器具からなる歴史、労働のさまざまな歴史。近代からポスト近代への移行期において労働が非物質的なものになる傾向をますます強めているとすれば、道具は、メタモルフォーズし、よりいっそう心的なものになってきているんだ。鎌とハンマー、シャベルとペン、しかしいまでは、文学と造形芸術(文学と造形芸術が自己表現する際の諸々の道具)もまた、個々の人間によって開発され個々の人間の実存と合体したさまざまな器具(言語学的器具?)によって、媒介されるものとなっているんだ。機能の抽象は、このようにして、作用の特異性のもとに、あるいはむしろ、身体のはっきりと決定された潜勢力のもとに、おかれているんだ。そしてまた、すでに見たように、言語活動の潜勢力、言語活動の拡大力のもとにおかれているんだ。


★アントニオ・ネグリ『アントニオ・ネグリ講演集 下 〈帝国〉的ポスト近代の政治哲学』(原書2006年、上村忠男監訳、堤康徳・中村勝己訳)、ちくま学芸文庫
マルクスの亡霊たち〔デリダの著作『マルクスの亡霊たち』(一九九三年)のことが念頭におかれている〕、あるいは、哲学から政治経済学批判へ。抵抗−近代的なものからの出口でドゥルーズ/ガタリによって理論化され特徴づけられた強固な抵抗、そして、フーコーによって構成的なかたちで新たに構築された抵抗。そうなのです、このような抵抗がシステムの内部にもたらされているのです。マルクスの亡霊とは、このことを意味しています。亡霊、怪物、イメージ、現実をたえず変える光。世界のシステムは−とマルクスの亡霊はわたしたちに言います−たんなる死んだ労働の軌跡でもなければ、自らの憲法構成的な力を使い果たしてしまった生きた労働の沈殿物でもない、と。世界はむしろ、生きた労働の憲法構成的な力の軌跡によってたえず中断され骨折を起こしたシステムなのです。資本のもとへと包摂された世界は、分断された関係の世界であり、資本主義的関係の分断を押し広めていく世界なのです。資本の概念は、実質的包摂のなかで、二重の関係に転化します。それは、複数的で、散逸的で、活性化するものとなるのです。この移行をたどることが重要です。それは、近代からポスト近代への資本主義的な移行が生み出す切断がいかに根深いものであるかを示しているのです。搾取の関係は、社会的諸関係の総体のうえにたえず移しかえられたものに転化します。資本主義によって時間的観点からも空間的観点からも生み出されるグローバルな諸関係の連続性のなかにおいてです。この状況のなかでは、生きた労働は完全に姿を一変されてしまっています。わたしたちが言いたいのはこういうことです。すなわち、生きた労働が変化するのは、資本が生み出す労働の組織化の変化をこうむるからだけではなく、闘争と集合的運動が構造的に深部において労働のメタモルフォーシス〔変身〕を引き起こすからなのです。


★アントニオ・ネグリ『未来派左翼(下)−グローバル民主主義の可能性をさぐる』(原書2006年、ラフ・バルボラ・シェルジ編、廣瀬純訳)、日本放送出版協会
基本的には、サブプロレタリアートの破壊的カルチャーが政治的再構成の原動力になっているというのは、体制転覆的行動の何より素晴らしい伝統のひとつです。ただし、このフランスでの運動の場合、そこには伝統だけでなく、アクチュアリティもある。つまりそこには、文学や音楽の歴史があるだけではなく、侵犯と切断の試みもあるのです。フランスのラップは、メディアの権力システムによる妨害にもかかわらず、もっともラディカルな抵抗形態のひとつにまで発展しました。フランス(ただしフランス本国内という意味ですが)では、ラップをはじめとするサバルタン文化のすべての表現形式は、いまなお効力を発揮している新植民地主義を凌駕しています。フランス社会の人種差別と、ルペン主義の影響力の大きさはどんな場合でも過小評価できません。だからこそ、ヒップホップ表現が文化的統合を促すと同時に、政治的にきわめて闘争的であるという点が、とてつもなく重要になってくるのです。二〇〇六年の三月から四月にかけて、パリ近郊と郊外のあいだで行われた大規模なデモでは、無数に起きたローカルなデモと同様、ラップがやむことなく聞こえていました。それは単調であるどころか、ときには実に詩的で、アステリクスの時代の吟遊詩人の音楽より間違いなくずっと力強いものでした。ラップは、混血マルチチュードの叛乱のサウンドトラックなのです。