★押井守監督『イノセンス』−バトーは泣くことができるか?−
2001年に劇場公開された実写第4作『アヴァロン』で、押井守は幻の大作『G.R.M.』のノウハウを活かし、実写にデジタル技術を全面的に導入した。SF大賞を受賞した2004年の『イノセンス』は、基本的にその延長線にある作品だと思う。たしかに1995年の『GHOST IN THE SHELL 攻殻機動隊』から9年ぶりに発表されたアニメ映画であり、その続編的な性格の作品であるが、映像の試みにおいて、またそのテイストにおいては、まったく似て非なるものと断言してもいい。
また物語において、士郎正宗の原作『攻殻機動隊』ともほとんど関係がない。前作の『攻殻機動隊』は、原作の1・3・9・11話を取り上げ、それらを踏襲しつつ押井が独自の解釈を脚本に加えたものであったが、『イノセンス』は、第6話を踏襲しつつもほぼオリジナルである。作品世界に原作のテイストはわずかに反映されているが、どちらかというとキャラクターと世界観を借用し、別個の物語を展開した作品と考えた方がいい。
では前者、つまり『イノセンス』が実写第4作『アヴァロン』の延長線に位置付けられる作品であるというのはどういうことであろうか?
それは、映像に『アヴァロン』でつかったデジタル技術を大幅に導入した点にある。『アヴァロン』のデジタル技術の最大の特徴は、実写をベースにデジタル合成で作り上げた映像のほぼ全編をデジタル・オプチカル・ワークステーション・システム「Domino」に通し、そのDomino上でさまざまな映像素材を合成して色調をコントロールしたことであった。それに対して、『イノセンス』のそれは、ほぼ完成に近い映像をすべて「Domino」に通し微妙な色彩調整を施すなどし、『アヴァロン』で試したことを全編アニメで使っている。結果として、最先端のデジタル技術に裏打ちされた美しい映像、実写をも超え眩暈がしそうな驚異的な映像の作品に仕上がった。
押井守の劇場版セル画アニメの傑作である『うる星やつら2』『パトレイバー1』『パトレイバー2』と比較して、デジタルアニメ『イノセンス』は映像の点で圧倒的な情報量がある。映像の情報量が増えたら、評論では情報量を押さえて書くのが鉄則である。そこで以下、キャラクターの「目」に注目をして小論を試みる。
サイボーグとは、事故その他何らかの理由で欠損した化学物質、人工器官、神経繊維などを付加して機械化された人間である。『攻殻機動隊』および『イノセンス』の設定を援用すれば、義体化している人間は総称してサイボーグと呼ばれている。それに対して同じ技術を駆使して作られた人型ロボットは、アンドロイドと呼ばれ、サイボーグと違う点はアイデンティティを証明する魂(意識、精神、人格)であるゴーストは持っておらず、脳の代わりにAI(人工知能)が搭載されている点である。
ほぼ全身を義体化したサイボーグであるバトーに関してずっと気になっていることがある。それは目を義体化したバトーは「泣くことができるか?」である。
他のサイボーグの目が、人間の眼球と見分けがつかない義眼であるのに対して、バトーの目は、表情が分かりにくい機械的な義眼である。人間の目は通常喜怒哀楽を表現する。その人の目を見れば、大体、喜んでいる、怒りに燃えている、哀しみに暮れている、楽しくてしょうがない事が分かる。「目は口ほどにものを言う」とはよく言ったもので、人間の目は実に表情豊かである。
『攻殻機動隊』にしろ『イノセンス』にしろ、他のサイボーグの目を注意して見ていると何となく喜怒哀楽が分かる。彼らの表情は普通の人間より乏しいにも拘わらず、人間の眼球と見分けがつかない義眼であるため、何となく想像してみることは可能だ。ところがバトーの義眼は、人間の目からも、他のサイボーグの義眼からもほど遠い機械的な義眼であるために、内面を窺い知ることができない。それだけではなく、「眼差し」が欠如しているため、彼は何を見ているのか分からない。
しかし、「眼差し」が欠如している存在ということは、古代ギリシアのソポクレスの悲劇『オイディプス王』に登場する盲目の預言者テイレシアスのように、視覚を超えてある種の法を見つめ守ることが可能な存在、あるいは視覚から逃れて幻視者としての天命を帯びた存在でもありえる。何も見ていないように感じるが、同時に視覚を超えた何かを見つめ守る存在。悲哀、祈り、呪い、死、愛などを帯びた存在。この点において『イノセンス』に多数出てくるガイノイド(女性型アンドロイド)のハダリ、検死官のハラウェイ、択捉の祭礼に登場する千里眼将軍や焼かれる人形たち、死体を模して横たわるキム、トグサが娘に渡した土産の人形は、バトーの分身であるかのようである。つまりバトーは、他のサイボーグとは違い、アンドロイドや人形などに近い存在だということだ。それゆえ『イノセンス』の主人公バトーは、『攻殻機動隊』の主人公で、ゴーストと脳以外は完全に義体化したサイボーグ、そして人形使いと融合することで守護天使となった草薙素子と繋がることができる無垢な存在である。
他方、「眼差し」を権力論的に分析するなら、違った見方もできる。フランスの哲学者ミシェル・フーコーが『監獄の誕生』などで分析した「眼差し」を中心に機能した近代の管理社会は、物理的な時間や空間を超えた『イノセンス』の世界において機能不全に陥っているかのようである。しかし『イノセンス』のポスト管理社会において、フーコーのいうミクロ(微粒子)的権力は、カウンターネットの水平的、非ヒエラルキー的な局面において新たに相互連鎖して行使されている。捜索モードにシフトしたバトーの電子眼は、人間の通常の視覚機能以外に、データとして状況を読み取ることができる。データとして読み取り可能だということは、状況を判断し電脳を速攻ハッキングして相手の視覚を乗っ取ることができるし、やり手のハッカーから電脳に侵入され疑似体験をさせられても反撃を加えることができる。そういう意味で、電子戦や諜報戦といった新たなミクロ的権力によるポリティクスが生じる目でもあるのだ。
僕は『イノセンス』が、バトーと素子とのラブ・ストーリーだなんてまったく思えなかった。ロクス・ソルス社が愛玩用ロボットであるガイノイドを製造していた他国船籍のプラント船内で、バトーが素子の生まれ変わりである人形と遭遇し、どこかでの再会を約束して別れるなんて、物語としては単純極まりない。むしろ『イノセンス』という映画の内部では身体を有せず非在である素子が、情報のマトリックスの中では偏在し、突然人形に宿りバトーの前に存在を現すといった、汎神論的で、同時にミクロ権力論的なドラマにこそ反応すべきだと思う。押井守がいうように遠景にこそ監督の秘められた物語が展開されているのだ。
さてバトーは「泣くことができるか?」。
たぶんバトーは「泣くことができない」だろう。フランスの哲学者ジャック・デリダが『盲者の記憶』でいうように、涙は目に到来するもので、われわれの視界を覆うものであるとするなら、涙こそが人間の目というものの本質である。人間の目の用途は見ることにはない。泣くことにこそある。だとしたら、表情の分かりにくい機械的な義眼で、捜索モードにシフトできる電子眼をもつバトーは、人間の本質の極北にいる存在である。人間に対峙する他者としての「機械」。
終盤近く、開発ラボのゴーストダビング装置から解放された少女が「だって私は人形になりたくなかったんだもの!」と叫び、泣き出す場面がある。しかし、アンドロイドで生まれ変わった素子も、ほぼ全身を義体化したサイボーグであるバトーもけっして泣くことはないだろう。ただ「孤独に歩め……悪をなさず、求めるところは少なく」「……林の中の象のように」(仏陀の言葉)と答えるのみである。
要するに「機械は泣くことができない」。それゆえ、コンビニでドッグフードを買い、セーフ・ハウス(隠れ家)でバセットと過ごす際に見せる人間くささが、かえってバトーの孤独に深みを与える。押井守が描きたかったのは、人間にとって他者である「機械と犬」、つまりバトーとバセット、および第3の他者である「人形」である。ゴーストを持たず、AIが搭載されているアンドロイド(ゴーストダビングしたハダリを含む)も、「泣くことができない」。「人形」は、バトーとバセットのような存在のすぐ近くにいる。
押井守が『アヴァロン』と『イノセンス』を経て、今後どのような作品を作り出していくのか興味は尽きない。個人的なことを言わせてもらえば、僕は高橋留美子原作の人気TVアニメ『うる星やつら』第1話「うわさのラムちゃんだっちゃ!」を観て以来、押井守のファンである。劇場版の実写やアニメもいいけど、是非ともTVアニメにちょっと顔を出して遊んでほしいなあと思っている。監督が無理だったら『ミニパト』のように脚本だけでもいい。1ファンの願いをかなえてくれないだろうか?
とはいえ、『イノセンス』を観て押井守の映像に興味をもった若い世代は、『うる星やつら2』のような、現実と虚構が相半ばする不条理な世界にひたってほしいし、『パトレイバー1』や『パトレイバー2』のような、東京を舞台に戦争をシミュレートしたポリティカルな作品で現実を再考してほしい。今回『イノセンス』を何度も繰り返し観たが、脱身体化してサイボーグ自己を獲得した人間は、男女はむろんのこと、人間と機械、種族と個人といった二元論的な区分を不確定にし、アセクシャルな(男女のどちらも性愛対象としないか、性的欲求のない)存在である「人形」へ向かっていく存在のように感じた。セクサロイドとは、そういう意味で反動なのかもしれない。
★鹿島田真希『六〇〇〇度の愛』(新潮社)
鹿島田真希の「文体」は独特である。ふつう、日本語などの制度化された「言語体系」は、各作家の使う「個人言語」(固有の語彙、言い回しなど)を横切って通り抜けていく「水平」の空間である。これに対して、作家の「文体」というものは、通常その作家個人の肉体を貫く「垂直」の時間軸として想像できるだろう。ところが、鹿島田真希の場合、「言語体系」と同じように「文体」までもが、鉤括弧や改行せずに会話や内面描写の部分が地の文章に流れ込んでいるため、「水平」のイメージなのだ。しかも「文体」がヒタヒタと読者の肉体を浸していくため、ワインを飲んでしまったかのように、その「文体」に「酩酊」させられる。とりわけ第18回三島由紀夫賞を受賞した『六〇〇〇度の愛』(単行本第5作目)には、読後まじでクラクラさせられた。
物語は、長崎を舞台に、女主人公がロシア人と日本人の混血児である「青年」と出会い、自殺した兄や葛藤のあった母との家族関係、キリスト教的な受難劇、8月9日の原爆投下の悲劇などを交錯させながら、その交わりを描いた。マルグリット・デュラスの『愛人(ラマン)』や『ヒロシマ、私の恋人』がモチーフで、ヌーヴォー・ロマンを日本語に翻訳したみたいだという評は、白百合女子大仏文科卒の経歴から妥当だと思う。しかしメタフィクション作家としての鹿島田真希を支持する立場から言えば、テーマや文体の成長は著しいものの、これまでの作品の延長線にも位置付けられると思う。
『ニ匹』で1998年にデビューした鹿島田真希は、純文学系の作家では異端的な存在であると評価されてきた。とりわけ聖書の神話、つまり「現実」とは程遠い世界である「超現実」を、「現実」に引っ張り込む形で、「現実」側の本性を暴こうとするメタフィクショナルな手法が特徴的だ。この手法は、ヌーヴォー・ロマン風の仕掛けを施し、キリスト教的な受難劇を挿入している本作の背後にあってこれを支えている。
また本作の舞台は一瞬の閃光とともに多くの犠牲者を出したあの「長崎」である。これはたとえば、学校という閉鎖的な空間に聖書の神話などを加味することで、人間の怖い部分をメタ展開して示した連作短編集『一人の哀しみは世界の終わりに匹敵する』(単行本第3作目)を思い起こそう。そこには「植物園」「メリーゴーラウンド」「愚か者の国」「素敵な人」など、「非在の場所」(否認された実在、あってもありえないが故にない場所)へ向かおうとするテーマが伏流していた。
この「非在の場所」は、本作では「青年」に相当するだろう。この「青年」は、時に「長崎」となり「兄」となり「祈り」となるが、いずれも考えてみれば「非在の場所」である。そして女主人公はこの「非在の場所」と交わることで、もう一つの哀しみ、もう一つの場所、もう一つの時の流れを経験することとなる。そこは「六〇〇〇度」という太陽や地球の中心の温度と同じ「白い放射光の場」である。
これまでの鹿島田真希の作品は、小説の作法を無視しているように見えるため、一部で「訳が分からない」という保守的な批判を浴びてきた。こうした批判が的外れであることは『六〇〇〇度の愛』を読み、「文体」、メタフィクショナルな手法、「非在の場所」という伏流するテーマなどを分析すれば分かるだろう。純文学ですぐれた作品とは、一見定型を崩したかのようにみえて、そのギリギリの所で留まっている作品のことをいう。そういう意味で、鹿島田真希の入魂の一作はその稀有な作品の1つである。
★鹿島田真希『黄金の猿』(文藝春秋)
鹿島田真希のエクリチュールは、非論理的なようで論理的であり、詩的かつ作品に流れる時間はノンリニアである。こうしたエクリチュールの戦略が目指しているのは、ロゴス=ファロス中心主義の解体であり、ジュリア・クリステヴァやリュス・イリガライ、エレーヌ・シクスーらフランスのエクリチュール・フェミニンの試みに近いと考える向きもあるだろう。とはいえ、「女性性」を書き記したいという欲求から始まった仏のエクリチュール・フェミニンと、「女性性における狂気や不可解さ」をテーマにしている鹿島田真希のエクリチュールには、若干のズレがある。この差異を了解した上で、現代日本の文学界を揺さぶり続けている作家の単行本第10作目へアプローチしてみよう。
本書には5本の短篇が収録されている。そのうち3篇は「黄金の猿」三部作で、主にホテル内のバー「黄金の猿」を舞台とした男女群像劇である。群像劇といえば青春群像のような物語をイメージするかもしれないが、じつは登場人物には名前がない。そうした匿名の男女を集合的に構成することより、女性性特有の集団的な意志や精神状況を表象=再現前化しようとした作品である。ではその集団的な意志や精神状況とは何だろう? それは「女の治癒することのない哀しみや絶望、不治の病」である。それらを「黄金の猿」三部作において、鹿島田真希は表象=再現前化の不可能性を認識しつつ描いている。
この表象=再現前化の不可能性を意識するのとしないとでは、雲泥の差がある。ポストモダンで、ハイパーリアル化した現代社会において、書き言葉を用いて、あるテーマを「表象」(指示・説明)し、それを「再現」する純文学という文学ジャンルがリアルであるためには、徹底的に「超表象」(ハイパーリプレゼンテーション)化するしかないと評者は考えている。現代アートでいえば、たとえばアサンブラージュや複製、反復などの手法の導入で、あるテーマを表象=再現前化するといったやり方である。そうした手法を取り入れつつ、本書に収録された「黄金の猿」三部作では、結婚という法に縛られた女、マスキュランな夫に従う妻、歌いながら徘徊する妹という3人の女を、まるでクローンのように変奏して登場させることにより、「女性性のおける狂気や不可解さ」を再現前化した。三島由紀夫賞を受賞した『六〇〇〇度の愛』(単行本第5作目)、野間文芸新人賞を受賞した『ピカルディーの三度』(単行本第7作目)と比べても遜色はないテクストだと思う。
鹿島田真希が有する文化資本は無尽蔵である。『ナンバーワン・コンストラクション』(単行本第6作)では、現代建築学をふまえた絶対矛盾の自己同一的な新境地の作風に驚かされた。また09年に相次いで出された2作品も新たな鹿島田ワールドをわれわれに示した。すなわち『女の庭』(単行本第8作目)の表題作では、隣の外国籍の女性を巡る専業主婦の妄想をメタ化して描き出したり、『ゼロの王国』(単行本第9作目)では、戯曲のように構成したドストエフスキー的な世界を現代に蘇らせた。鹿島田真希が並はずれた天才だと思うのは、ミシェル・フーコーが『精神疾患とパーソナリティ』の結論でいうように、「病気になったから精神が錯乱するのではない。疎外=錯乱するために、病になるのである」ということにいち早く気づいていることである。つまり原初に精神錯乱=疎外があり、ついで病気が発見され、最後に異常だと判定される精神分析学は、近代という歴史の所産であり、神話にすぎないのだ。こうした初期フーコー的な視点で本書を読むのも、あながち的はずれではないだろう。
★星野智幸『植物診断室』(文藝春秋)
『最後の吐息』で97年にデビューした星野智幸は、他者のテクスト、とりわけ中上健次やガルシア=マルケスらのそれを、彼独特の濃密な文体に流し込み、ポストモダン理論も彼なりに消化している作家だなとの印象をもっていた。しかし同時に、彼が発表し続ける作品を読むたび、他者のテクストの亡霊が憑依していることに息苦しさを感じ、もっと書きたいテーマが身近にあるのではと疑問を抱くこともしばしばだった。そうした懐疑的な見方が完全に払拭されたのは、単行本第4作『毒身温泉』からである。
とくに独身者が共同生活を目指す表題作や、新聞記者時代の自分をモデルにした単行本第5作『ファンタジスタ』所収の「砂の惑星」は、「ドミニカ棄民」という日本の現代史の裏にある不法行為を無理なく作品の中に挿入している。こうしたヘヴィーな歴史的テーマを取り上げるのは純文学の流儀ではないとの声もあるだろう。しかし純文学の作家にとって重要なことは、主題をどのように言葉というマジックで描写し、読者に向けて(伝達不可能性を認識しつつも)伝えるかにある。星野のこの2作品のすごいところは、とても重たいテーマを、今日的な問題とリンクさせ、すでに「星野マジック・リアリズム」と名づけるしかない孤高の域に達した豊穣な文体で描き切っているところだ。
さて『植物診断室』に向かおう。本書は単行本第11作で、第136回芥川賞候補となった話題作である。主人公は、作者と同年の独身男性・寛樹だ。彼の趣味は、ベランダ一面に植物を繁茂させるジャングリングと、知らない「路地」をランダムに徘徊することである。また会社の同僚からの紹介で植物診断師のところに通っている。物語は、彼と同い年で離婚歴をもち二児を育てている幹子から、優太と父親代わりに接するように依頼されるもので、妹夫婦とその子を含め、彼と子どもら3人との交流を主軸にした作品だ。
本書は難解ではない。しかしそのテーマは単一なものではなく、輻輳したテーマから構成されている。とりあえず2点だけ指摘しておこう。まず第1に、『毒身温泉』と同系列の「男性性の解体」というテーマである。家父長制とは、年長の男性によって支配される政府や社会、とくに家族である。この家父長制が基礎となり、日本を含めほとんどの近代社会が形成されたが、その家父長的言説はフェミニズムやクイア理論によって批判されてきた。星野の「男性性の解体」というテーマは、いわばこの家父長的言説へのエクリチュール・フェミニン的な挑戦であり、ジャングリングや徘徊、植物診断師との話を挿入することで「男性性」が攪拌され、テクスト自体がバイセクシュアリティ化されている。
第2に、単行本第7作『アルカロイド・ラヴァーズ』の系列に繋がる「植物や鉱物への変身」といった脱人間中心主義のテーマである。松浦理英子が、星野の作品のありようを「全身性感帯にして非常に精緻な受胎(受粉)装置」と的確に評したことに首肯するが、オリジナルとしてのアイデンティティなるものは存在しない。つまり、自己とは内部において断片的であり、複数の自己をもつ。いいかえると、アイデンティティとは不完全で脱中心化されたものであり、絶えず構築をしていくパフォーマティヴなものだ。星野作品に伏流する「植物や鉱物への変身」といったテーマは、こうした自己同一性を行為遂行的に脱構築していこうという意図が反映されたものだと思う。
最後に、「お山の杉の子」から防空壕、スギノコから「産めよ増やせよ」、そして靖国神社。星野の時代への危機感は、評者も抱き続けている。
★諏訪哲史『アサッテの人』(講談社)
諏訪哲史。彼のデビュー作である本作を、「群像」6月号で読んだときの衝撃を今も忘れることができない。「ポンパ」「チリパッハ」「ホエミャウ」「タポンテュー」。これらの意味内容が欠如した音のインパクト。前後のストーリーの文脈に関係なく書き言葉から音声記号が飛び出してくる感覚。この際、ソシュール言語学や、ロラン・バルトらの記号学などがいう、記号の表現面であるシニフィアンと、その内容面であるシニフィエの関係なんぞ、どうでもいい。「ポンパ」をはじめとした諏訪のアサッテ言語は、小説から図像(イコン)として飛び出してきた「オハラッキー」みたいなものとして純粋に楽しめばいいと思う。とはいえ、そんなレビューは書評とは言えない。書評とは未知の読者に向けて当該著書の複数の読み方を提示することを使命としているからだ。
さて本書は、吃音癖のあった叔父・明が、あるきっかけでそれがなくなり、代わって「ポンパ」をはじめとした不可解なアサッテ言語が生まれる。そうした叔父の謎や実像らしきものを、叔父の兄の子である甥が、@個人的な記憶、A叔父をモデルとした小説草稿、B叔父の日記、から「浮き彫り=仮構」しようとした多層構造のメタフィクションといえばいいだろう。著書から引用すれば、第1章に「作為をことさら回避せんとして自ら作為に囚われる態の、これぞ『前衛』の轍」とあるように、小説で語ることの不可能性を「作為」に加担しつつ表象=再現しようとした意欲作だ。エンタメから純文学に殴り込んできた舞城王太郎や佐藤友哉らに対する、純文学側からの逆襲ともいっていいかもしれない。
ここで評者がまず注目したのは、叔父がかつて吃音癖だったという設定である。吃音とは、言語リズムの一種の障害で、リニアーな会話の流れがある音の躊躇や重積などから、発声が阻害される現象のことである。今日の精神医学では、神経症や心身症の現れとみる説が有力であるが、社会や家庭からの過度の欲求に対する反動だと解釈したら分かりやすい。たとえば「日本語を正しく」とか「お行儀よくしないと、○○はお預けよ」みたいなプレッシャーがかかると発症する。@男性に多いこと、A近代以前や未開社会では問題なしであることを考えると、フーコー的にいえば近代の精神医学の誕生とともに吃音癖も問題視されるようになったといえばいい。
この吃音癖が「郵便ポストが赤い」という視覚ショックにより跡形もなく消え去り、その結果、吃音的なもの=アサッテ言語が誕生する。これはけっしてダダイズム的な言語ではない。ダダイズムの本質とは、極端な自己破滅や自縛的な自己否定だが、アサッテ的感性とは、世界の外へ向かおうとする転身本能である。第10章から引用すると、「自分の行動から意味を剥奪すること。通念から身を翻すこと。世が統べる法に対して圧倒的に無関係な位置に至ること…」だ。この意味で感心した存在が、エレベーターの監視モニターに映る「チューリップ男」である。彼の挙動は、アクション、イベント、ハプニング? 否、日常という平面空間を突き抜け、垂直な深みに至る爆発的な生の覚醒に他ならない。
で、再び諏訪哲史。ドイツ文学者であった故種村季弘の弟子で、哲学科卒業。卒論がラファエル前派。文化資本の蓄積は十二分だ。とはいえ、玄人受けする作家が必ずしも読者(や編集者)に正当に評価されないのが、現代日本の文化市場の実情だ。群像新人文学賞と芥川賞のW受賞なんて、半年後にはもう忘れ去られているかもしれない。したがって、晦渋な文体にもっとポップなもの入れつつ、諏訪らしいひねりや諧謔を効かせる。これこそ新しい「ネオダダだ文学だ!」の誕生であり、遅咲きの「アサッテ男」が大暴れする戦場だと思う。最大限のエール(エルレ)を君に送る!
★黄英哲・白水紀子・垂水千恵編集委員「台湾セクシュアル・マイノリティ文学」(全4巻、作品社)刊行に寄せて
台湾人は、大きく分けて戦前から台湾に居住している本省人と、国共内戦に敗れ国民党軍とともに台湾に移住した外省人に分かれる。台湾で生きることは「境界線」上で生きることだと思う。それは政治=文化的に幾重にも引き直された(いる)「境界線」という意味である。近代以降に限定して述べると、清朝が設立した台湾省から、大日本帝国の統治、国民党の一党独裁をへて、政治の民主化(民進党)へと政治は変化してきた。他方、台湾文化は伝統的に中華文化圏であるものの、日本やアメリカ、韓国文化の影響も強い。台北の西門界隈をフィールドワークすれば分かるが、日本のマンガやアニメ、ゲーム、ポップス、ファッションがすでに台湾文化の一部になっている。たしかに根底では中華文化への帰属意識が強いだろうが、重ね重ね引き直された(いる)「境界線」上を生きるポストモダンな政治=文化的状況が台湾の魅力だと思う。このような魅力を発している台湾から届いた性的マイノリティの文学集が「台湾セクシュアル・マイノリティ文学(全4巻)」である。
まず第1巻の邱妙津『ある鰐の手記』は、台湾レズビアン文学の記念碑的作品である。中華文化圏でレズビアンの一般的な婉曲表現である「拉子」および「鰐」は、本書に由来するほどであり、現代台湾レズビアン文学の聖典といっていいだろう。主人公である女子大生「拉子」の男役レズビアンとしての懊悩が描かれた実存主義的な小説という読み方が一般的である。つまり男の欲望を象徴する〈男根〉に同一化したレズビアンが主人公で、キルケゴール的な「死に至る病」としてレズビアニズムをテーマとしたという読解である。もちろんこれは誤読だ。女役の水怜、男役か女役か不明な呑呑と至柔との関係に視点を移すと、〈男根〉に媒介されない女自体のホモ・エロティシズムが味わえる。また「鰐」が登場するアレゴリー的な逸話は、異性愛中心的な社会に対する風刺であるし、デレク・ジャーマンやジャン・ジュネ、村上春樹の作品への言及といった間テクスト的戦略により、意味の層が厚くなり、連想を生む仕掛けが施されている。結果として、複雑なレズビアンの心理状態が表象されており、本質主義的なレズビアニズムではなく、多形的な性のあり方や欲望が再現前化されているのだ。本書自体を、異性愛の文化規範としてのパロディあるいは攪乱として読むべきだろう。
第2巻の紀大偉作品集『膜』は、4本の中短篇が収録されたクィアSF小説集である。中華文化圏でクィアは「酷児」と表現し、これが紀大偉らの造語であることは有名な話だ。表題作は主人公「黙黙」の記憶の移植と身体改造を描いた作品である。「黙黙」は英語名で「MO-MO」である。中華文化圏でゲイメンの婉曲表現は「分桃」であるが、それに日本の童話「桃太郎」を重ね、さらに伊藤潤二、ラカン、シェークスピア、アルモドバル、アルトマン、『マハーバーラタ』、ニーチェなど古今東西のテクストをサンプリングしたサイバーパンクSFが表題作だ。ところで英語のクィアとは元々「普通でない」という意味で、性的指向やジェンダー・アイデンティティが異性愛という標準に反しているレズビアンやゲイ、バイセクシュアル、トランスを包括的に指し、その理論はミシェル・フーコーのポスト構造主義や現代フェミニスト哲学に由来する。クィアネスの眼目はジェンダーのみならず、セクシュアル・アイデンティティの脱構築にもあり、それをSF小説という形で、ポストモダン資本主義やヴァーチャル・リアリティへの批判まで行っているのが紀大偉である。
以上、既刊の「台湾セクシュアル・マイノリティ文学」を概略したが、3月に第3巻の『新郎新“夫”』と、第4巻の『父なる中国、母(クィア)なる台湾?』が刊行される。第3巻で評者が注目しているのはクィアSF作家・洪凌の「受難」である。洪は小説創作や評論以外に、ボードリヤールの『シミュラークルとシミュレーション』や、アン・ライスの吸血鬼をモチーフにしたゴシックホラー小説『呪われし者の女王』などを翻訳している注目の若手だ。「受難」は「異端吸血鬼列伝」作品群の1つで、耽美的なエロティシズムにレズビアニズムを接合した作品である。第4巻にも現代台湾のレズビアン小説を概観した評論「蕾絲と鞭子の交歓」が収録されており、ドゥルーズ/ガタリやバタイユを援用しつつ、レズビアンの情欲の流れを攪拌する論陣を張る。洪は紀大偉とともにポストモダン理論に精通しており、そういう意味でも読み応えがあるだろう。「台湾セクシュアル・マイノリティ文学(全4巻)」は、現代台湾の性的マイノリティによる文学や評論の最前線がよく分かるラインナップであり、ポストモダン理論に基づくクィア文化に興味のある方は必読である。
★佐藤友哉『子供たち、怒る怒る怒る』(新潮社)
1980年、北海道で生まれた佐藤友哉は、高校卒業後フリーターを経て、2001年にミステリー小説『フリッカー式』でデビューした。その後、『エナメルを塗った魂の比重』『水没ピアノ』『クリスマス・テロル』『鏡姉妹の飛ぶ教室』と、鏡家の登場人物を描き「鏡家サーガ」を構築し話題を呼んだ。そして2005年5月、『新潮』に発表した作品などを収録した単行本『子供たち、怒る怒る怒る』が刊行された。
佐藤友哉の作品では、音や声が特権的に描かれ、音や声のもつ物質性と時間性が、引用や流用や固有名詞の濫発による異物感と深く結びついた作品という評価がある(山田和正)。たしかに彼の作品はレトリックだけでなく、さまざまな音声パターン、引用や流用や固有名詞の濫発、さらに言葉の配列方法を利用して言葉の衝撃力を高めようという意図があるのだろう。『子供たち、怒る怒る怒る』の6編でも、そうした試みを行っている。
まず、高校1年生4人による学校占拠を描いた「慾望」では、さまざまな音声パターンとして、返事がタタタタタタタと鳴り響いたり、1段落に連帯責任が15回も繰り返されたりする。また引用や流用や固有名詞も濫発され、哀川翔、あさま山荘、三島由紀夫が、意味も理由もない学校占拠の物語の背後にあってこれを支える。
他方、「大洪水の小さな家」では、春兄ちゃんが妹を助けに水没した家に潜るが、そこで遭遇する『ウェッジウッド』など記号論的なものには二重鉤括弧が付けられ、『他人』『物質』『言葉』『時間』などの抽象名詞、さらには文章までも二重鉤括弧で刻まれてゆく。そうだ、『そう』なのだ、『何一つ』『説明』『するつもり』『などないし』『このような』『言葉』『を発する意味性』『すら』『失って』『いるわけな』『のだか』『ら』『。』、という具合である。
しかしながら、佐藤友哉の作品には、抽象的、精神的な意味を、具体的、物質的形式で表現する「寓意」(アレゴリー)という側面もあると思う。つまり、物語の中で相互につながりのある多くの象徴や擬人化が含まれ、それらの象徴や擬人化が一緒くたとなり、半ば隠された意味を構成するという仕掛けも多用されているのだ。
たとえば〈牛男〉なる殺人鬼を小学校6年生の6人が牛男ゲームで追跡するという表題作では、主人公の〈牛のぬいぐるみ〉という象徴や、〈牛男〉という擬人化だけでなく、町井さんの〈予知〉や横井さんの〈死体〉や八尾さんの〈お父さん〉などが相互に関連しつつ、物語に隠された意味を構成している。しかも、〈牛男〉を過剰に強調し、たとえば「それは影。それは闇。巨大なかたまりが、立っていた。」と「誇張」(ハイパーボリ)の技法で表現することで、相互に結びつきのある多くの象徴や擬人化が、破綻することなく収まるという前人未到の試みを行っている。
こうした読者に文字通り受け取られることを意図しない「誇張」という技法は、「死体と、」では、エンバーミングを施した(人形のような)〈死体〉、「生まれてきてくれてありがとう!」と「リカちゃん人間」では、〈人形〉にも使われている。表題作では〈牛男〉への巨大化であるのに対して、これらでは〈死体〉や〈人形〉への微小化という「誇張」の技法が利用されている。
ところで、前半の3作と、表題作の後に収められた書き下ろし2作とは物語のベクトルが大きく違う。前半の3作は、絶望的状況から、自己完結した死へ向かうベクトルであるのに対して、雪に生き埋めになってしまう少年を主人公とした「生まれてきてくれてありがとう!」と、親の虐待、同級生のいじめ、強姦にさらされた少女を主人公にした「リカちゃん人間」は、絶望的状況を描きながらも、希望のようなもの、生へ向かうエナジーに転じているのだ。
両短編において主人公たちは、「あらゆる種類の困難も、このぼくを破壊することはない。」(「生まれてきてくれてありがとう!」)、あるいは「戦え。戦って勝て。戦って自由を勝ち取れ。」(「リカちゃん人間」)と、現実の「世界」に対して戦いを宣言する。時代の閉塞感を打ち破るというのは常套句であるが、大洪水や学校占拠、殺人鬼といった暴力や殺戮を描くことを通じて辿り着いた書き下ろし2作には、佐藤友哉の作家としての心意気=パトスを感じた。
[初出順]
1.「慾望」(『新潮』2004年1月号)
2.「大洪水の小さな家」(『新潮』2004年5月号)
3.「死体と、」(『新潮』2004年6月号)
4.「子供たち怒る怒る怒る」(『新潮』2005年1月号)
5.「生まれてきてくれてありがとう!」(書き下ろし)
6.「リカちゃん人間」(書き下ろし)
参考文献
『ユリイカ』2004年9月増刊号「総特集西尾維新」(青土社)
★筒井康隆『ダンシング・ヴァニティ』(新潮社)
筒井康隆といえば、ある世代の文学少年にとって星新一や小松左京らとともに「父親」的存在である。「父親」といってもエディプス・コンプレックスを消滅させ同一化を迫る存在ではなく、「父なき社会」における「代理父」みたいなものという意味だ。高度経済成長期に生まれた少年は、父親が働く姿を見ることは稀である。つまり高度な分業や専門化に伴い、労働行為は家庭ではなく会社や工場に移り、父親により少年は育てられなくなった。パソコンやケイタイ、各種ゲーム機器に囲まれている現在ならいざ知らず、娯楽が今より少なかった高度経済成長期において、SF小説が「育ての父」的な役割を果たすのは当たり前のことであろう。かく言う評者もその1人であり、デビュー作『東海道戦争』以来の熱烈な「ツツイスト」である。
さて本書の表題は「踊る虚栄心」(あるいは「ナンセンスな空虚」)といった意味である。主人公は浮世絵の始祖は岩佐又兵衛であるという説のベストセラーを発表した美術評論家。彼にプラス、母親、妻と娘、出戻りの妹と姪といった家族構成で、時折死んだはずの父親と息子が登場し、彼らが主な登場人物といえばいいだろう。物語は1つのシーンがループ(反復)し、何度もそれを繰り返しつつ、徐々に話が進行していったり、いきなり場面が展開したりと、パソコンのプログラムミスのような案配で、非常に実験的な試みがなされている。本書の参考資料に、東浩紀の『ゲーム的リアリズムの誕生』が挙げられているように、私小説=自然主義リアリズムに対するアンチテーゼとしてゲーム的リアリズムが導入されていることは、本人も各種メディアのインタビューで公言している。
シルバー・バトルを題材とした『銀齢の果て』がアクションゲームだとすれば、本作は基本的に演劇やドラマ的要素を加味したロールプレイングゲームである。しかも江戸時代や戦時中へと時空を越えるところなど、アドベンチャーゲーム的な面もある。メタ物語、リセットやリプレイなど、筒井流のゲーム的リアリズムが前面に押し出されている。とはいえ、ループという手法はゲームに限定されたテクニックではない。現代音楽でいえばスティーヴ・ライヒの試みに近いだろう。ライヒは同じ言葉を録音した2本のテープを反復させながら、徐々に片側のテープのテンポを速めてずらす作品を作ったり、名作「ディファレント・トレインズ」だったら、第2次世界大戦中に彼が乗った列車の音、家庭教師の声、ユダヤ人の証言などを録音したテープを弦楽四重奏でサンプリングしたりした。テクノ・ミュージックを含め音楽というジャンルではごく当たり前の手法なのだ。
若手作家がいまだに個人の内面を深く掘り下げた私小説を発表して一定の評価を得ている日本の文学市場を考えると、今年で74歳になる筒井康隆の反骨精神には頭が下がる。私小説もどきや、ケッタクソ悪い純愛小説を読む暇があったら、自覚的に新たな手法を開拓し続けている筒井康隆の諸作品を読むべきだろう。だいたい個人の内面や純愛といった近代が生み出した概念など1970年代で終焉を迎えたはずである。21世紀になっても、そうした近代的な概念が幅をきかせている状況を考えるなら、日本の文学市場は最低40年は遅れている。
08年3月から「ビアンカ・オーバースタディ」というタイトルのライトノベルが「ファウスト」誌上で発表される予定である。いかなるリアリズムが展開されるか、期待を込めて◎。
up!!★高原英理『ゴシックハート』(講談社)
ゴシックとは何か? ゴシックとはもともと、広い窓をとり、高い尖塔や尖頭アーチなどの垂直線から生じる強い上昇効果を特徴とした、カトリックの大聖堂に代表される中世後期の建築様式で、絵画などへも影響を与えた。その後、16世紀には中世カトリックに対する否定として、ルネサンスとプロテスタントの宗教改革が起こり、近代の「合理主義」精神が探求されるが、人間とは非合理なもので、それに抵抗する人というのは必ず出てくるものである。ゴシック精神はいつの時代にもリバイバルするものだ。
たとえば18世紀頃のイギリスでは懐古趣味な貴族たちが、大聖堂、教会、邸宅などに中世風の様式を取り入れたり、中世のゴシック建築の古城などを背景とし、殺人、幽霊などを主題とした小説や詩を書いたりしていた。その代表者はホレス・ウォルポールで、『オトラント城綺譚』というゴシックの嚆矢とされる小説を書いたことで有名である。また、ゴシックには野蛮性というものが不可欠であるが、それはルネサンス期のイタリア人が、中世建築を粗野な蛮族ゴート族がもたらしたものとして非難したことに由来する。
20世紀以降も、ゴシックは息を絶えず、小説、映画、音楽、服装などに活動の場を移し、その精神は死んでいない。怪奇小説、怪奇映画、ゴシックロック、そしてゴスロリ、ゴスパンクについてはもう存知のことで、それらを改めて考えてみても、ゴシックを継承していることに異論はない。ゴシック精神は決して絶えることはないものだ。
高原英理の『ゴシックハート』は、このようなゴシック精神を、時に歴史に遡り、ジャンル横断的に論じた12篇からなる書下ろしの評論である。取り上げているテクストも、高原の専門である文学(幻想文学など)のみならず、絵画、写真、映画、漫画、アニメ、音楽、人形と幅広く、教養の幅広さが伺える。たとえば、建石修志、ジョエル・ピーター・ウィトキン、岡崎京子、押井守、マリリン・マンソン、三浦悦子などなど。彼らの作品に通底するゴシック精神のありようを見事に描いた本書の価値は大きい。
たとえば第6篇「身体」において、身体への加工と改変の例として、サイボーグ物語である『攻殻機動隊』や『銃夢』を取り上げ、それらをタトゥー、ピアッシング、エステ、美容整形などと関連させながら、岡崎京子の『へルター・スケルター』と「分離=接合」し、それらに伏流する「権力への意志」=「自他を損ない汚れながらも高慢であり続けようとする意志」が、ゴシック精神であるとの指摘など、とても読み応えがある。
しかしながら、ゴシック精神は各時代や状況によってその背景は異なる。こうしたゴシックのもつ多様性や雑種性を描き切れていないことも事実だ。言い換えると、ゴシックのようなものの百科全書となり、好事家的な衒学趣味もなきにしもあらずといった印象を受ける部分が多々ある。たとえば第11篇「廃墟と終末」において、ドイツ・ロマン派を語っていたかと思うと、急に永井豪の『デビルマン』や庵野秀明の『新世紀エヴァンゲリオン』からグノーシス主義へと話が移ったりして、掘下げの浅さに少し唖然とする。ある程度時代の範囲を限定してテーマを論じた方が、論旨が鮮明となり評論としてグレードが高くなるだけに残念だ。
とはいえ、高原のゴシック精神が遺憾なく発揮された本書は一読に値する。
★小谷真理『テクノゴシック』(集英社)
ハイテクとゴシックカルチュアとの関係性を再考した小谷真理の『テクノゴシック』は、最近読んだ評論集の中でもっとも刺激に満ちた1冊となった。文化とはそもそも多元的である。いいかえると、文化はヘゲモニーをめぐる多層的な抗争の場であり、ここにおいてゴシックカルチュアもまた不可欠な役割を果たしている。それだけではない。男性と女性、精神と身体、白人と非白人といった二項対立、つまりジェンダーやセクシュアリティ、エスニシティなども重要な要素となり、それらの境界線そのものを問題化し、それらが構成されているプロセスを浮上させ、境界線を撹乱したり解体する。このパフォーマンスこそが不断に変化し続ける現代文化を読み解く際に必要なことだ。小谷真理は本書においてまさにこれらの境界線を撹乱・解体することで、ゴシックカルチュアの中の「他者」(エイリアン)を発見し、それによって自らのアイデンティティを確認していく作業を行っているように感じた。
ではゴシックカルチュアにおける「他者」とは何か? 代表的なものは、古典的なゴシック文化では、吸血鬼、フランケンシュタイン、人狼、宿命の女など、現代のゴス文化では、少女、メイド、人形などがそれに相当するだろう。これらは、幻想小説からサイバーパンク小説に至る文学に、ゴス・ロックからマリリン・マンソンに至る音楽に、『ヘルレイザー』から『マトリックス』や『イノセンス』に至る映像に、幾度も変奏され、その「他者」性が描かれてきた。小谷真理は「他者を知るとは、現実世界に隠蔽されたさまざまな社会的構造矛盾を暴き出す」と述べているが、その矛盾は、各時代や地域の社会的状況などによって違うのはいうまでもない。本書の素晴らしいところは、ゴシックカルチュアのもつ多様性や雑種性を、博学多識な知をフルに活用しつつも、衒学趣味に陥ることなく各々の作品に内在して分析している点だと思う。
それだけではない。アリス・ジャーディンが「女性性」がコード化された空間のことを「ガイネシス」(「女」と「起源」の合成語)と呼んだが、ゴシックカルチュアはまさにこの「ガイネシス」の場なのだ。たとえば本書第W章で取り上げられている「ゴスロリ」、つまり頭に付けたヘッドドレス、マントのようなケープ、姫袖、スカートの中にはくパニエやペチコート、十字架や棺桶のワンポイント、ボンテージなどなどのスタイルは、まさに「女性性」がコード化された「ガイネシス」である。しかも大人の「女性性」を身につける以前のロリータ=「少女」であることに注目すべきだろう。「女性性」にしろ「少女性」にしろ、人工的にパッチワークされたフェイクなシミュレーショニズムであり、「男性性」中心の「家父長制」社会を空洞化する喪の契機となりえる。
そう考えると、テクノゴシックとは、ヘテロセクシュアリティに対するトランスジェンダーというべき文化であり、ジェンダーのステレオタイプに対する挑戦といって過言ではないだろう。押井守の『イノセンス』における少女が「テクノロジーに溶接されながら、同時のテクノロジーを利用してサヴァイヴァルしよう」としたように、われわれもゴシック精神で戦おうではないか。小谷真理の『テクノゴシック』は、とてつもなくエンパワメントされたゴシックカルチュアのバイブルというべき著書である。
★巽孝之・荻野アンナ編『人造美女は可能か?』(慶應義塾大学出版会)
本書は主として、ホフマンの『砂男』から、今日のゴスロリや人形、アニメやマンガまで「人造美女」の系譜を、文学や文化の角度から再検討した10編の論文からなる論集である。本書の魅力を一言で語れば、「21世紀になっても色褪せることのない『人造美女』という永遠のテーマに、気鋭の論者が挑んだアンソロジーの傑作」といえばいいだろう。巽孝之が提示したキーワードは「ガイノイド」、つまり女性型アンドロイドである。一般的に「ヒューマノイド」(人型ロボット)のことを、日本では男性型も女性型も区別なく「アンドロイド」と呼称しているが、欧米では「アンドロ」が「雄性」を意味するため、「雌性」を意味する「ガイノ」を用いて女性型ロボットを「ガイノイド」と呼んでいる。
歴史的にいえば、「美女」というイメージは「男/女」といったジェンダーを基盤としたファロス(男根)/ロゴス中心主義のイコンとして存在し、その眼差しは常に「男」のものだった。それに対し、ポストモダンな「ガイノイド」=「人造美女」は、近代の家父長的な言説では表象不可能なものである。つまり「男」の眼差しではなく、「女」の差異や欲望が分節化された言説空間の中にこそ「ガイノイド」は存在するのだ。そう考えてみると、現代日本のゴスロリ、SDやDDなど球体関節人形、フィギュア、アニメやマンガで表象されるハイパーボリックな美少女など「ガイノイド」に溢れかえったポップカルチュアの状況は、アンチ家父長=「独身者」的な文化状況といえるかもしれない。そんなことを考えながら、本書に収録された論文を読んでみたが、とりわけ次の3つの論考がお勧めだ。
まず宝野アリカ論文における、ルイス・キャロルの『不思議な国のアリス』や恋月姫の人形から、「コッペリアの柩」など自作の楽曲解説に至る論考は、現代のアキバ系男性の眼差しにおけるイコンとも解釈できるコスプレやメイドに対する批判や、広義のトランスジェンダーであるドラァグ・クイーンとの関係性を示唆しており刺激的だった。また高原英理論文において、三原ミツカズの『DOLL』、大越孝太郎の『人形姫』、CLAMPの『ちょびっッ』などは、ヴィリエ・ド・リラダンの『未来のイヴ』よりもむしろ、ポーリーヌ・レアージュの『O嬢の物語』や日本文学史における「稚児」的なイメージの方が合っているとの指摘も首肯できた。さらに小谷真理論文では、「人造芸者」を主役としたアーサー・ゴールデン原作でスピルバーグ製作によって映画化された『さゆり』を分析し、芸姑たちの芸が西洋の舞台技術によりパッチワーク編集されたスポコン的なドラマであり、そのテーマパーク的な世界の偽者性は、『ジェラシック・パーク』の世界と通底しているとした論考も読み応えがあった。
ところで、スーザン・J・ネイピアが、庵野秀明の『新世紀エヴァンゲリオン』をセクシュアリティを中心に論じ、主人公の1人である綾波レイを「神聖なモノとの繋がりを持つ存在」とし、日本における古い「人形」(ひとかた)の伝統の側面を有しているとしている。アニミズムは、生物・無機物を問わずあらゆるものの中に霊魂が宿っているという考え方である。ここにおいて、人間と動物、人間と機械、男と女といった二項対立な境界は破られている。「人形」もまたアニミズムの所産であると考えるなら、「人造美女」とは「ポストモダン・プリミティブ」というべき存在かもしれない。
注意:「ポストモダン・プリミティブ」:ファキール・ムサファーがピアッシングやタトゥーなどの身体加工に対して名付けた用語である「モダン・プリミティヴ」を、私の「ポストモダン・メディア文化論」に再利用するために作った用語です。
★リッキー・ヴィンセント『ファンク−人物、歴史そしてワンネス』(宇井千史訳、ブルースインターアクションズ)
今回はアフリカ系アメリカ人(黒人)のファンクという音楽について、大学で「ファンクの歴史」という講座を教えつつ、ラジオDJをやっているリッキー・ヴィンセントが書いた約500頁におよぶ翻訳本を紹介しよう。一言でいえば、この本を読まない人は音楽について語る資格はないといえるほど奥の深い著書である。ではファンクとは何か。ファンクとはすべての黒人音楽の根底にあるものであり、序文でPファンクの総帥ジョージ・クリントンが述べるように、世代や国籍や民族なるものを越えて、僕たちの魂と五感に熱く訴えかける何かである。
ファンクは、1960年代の公民権運動、キング牧師やマルコムXの暗殺、ブラック・バンサーの弾圧以降の70年代に黄金の時代を迎える。アメリカの黒人音楽の歴史でいえば、60年代からのジェームス・ブラウン、スライ&ザ・ファミリー・ストーン、ジミー・ヘンドリックスを祖とし、おもに管楽器やベース、シンセサイザーを打楽器のごとく使用するリズム革命に特色があるといえばよいだろう。そしてそれは当然アフリカの歴史まで溯ればコミュニケーション手段であるトーキング・ドラムがルーツである。ただ短い誌面でファンクの全ての歴史を語ることは無理なので、この著書の傑出した素晴らしさを2点だけ指摘しよう。
第1に、従来ロックの歴史で語られるスライやジミ・ヘンを、ファンクの文脈で位置づけている点である。たしかにスライの場合、メンバーは黒人と白人が混在していたし、ジミ・ヘンの場合、4枚のオリジナル・アルバム中3枚のメンバーは白人である。しかし彼らのCDを聴いてファンクの息吹を感じない人などいないだろう。たとえばスライのベーシスト、ラリー・グラハムのぶつぶつ弾けるベースのプラッキングによる打楽器的な音、ジミ・ヘンのギターのブルース的なリズム感。スライの延長線にはEW&F、KC&ザ・サンシャインバンド、オハイオ・プレイヤーズなど、ジミ・ヘンの延長線にはPファンク、ウォー、ジェームス・ブラッド・ウルマーなどを見出すことは容易だ。
第2に、1978年をピークとする例のディスコ熱によるロック・ファンや評論家の「ファンクを含む黒いもの=ディスコ」というレッテル貼りに対する強烈な異議申し立てだ。たしかにこの70年代後半のファンクバンドは反復の多い音楽を意図的に演奏している。たとえばブラス・コンストラクション、ブリック、ブラザーズ・ジョンソンなど。しかし他方、超ド級ファンク=より一層強烈なファンクを追求したバンドとしてキャミオ、スレイブ、レイクサイド、不死身のバーケーズなどがいたことを忘れてはならない。いわば硬派のファンクは全米各地で足腰のしっかりした音楽を展開していたのであり、そこからリック・ジェームス、プリンスらの音楽は生まれたのだ。
★『FOXY BROWN』『BLACK CAESAR』
今回紹介する輸入ビデオ2本は、MGMから発売され「SOUL CINEMA」と銘打たれている。しかし「SOUL CINEMA」というより「FUNKY
CINEMA」と呼称した方がよいのではと突っ込みを入れたくなるような、ファンキーで痛快な娯楽アクション映画である。70年代前半のブラック・シネマは、いわゆる「ブラックスプロイテーション」(BLAXPLOITATION)と呼ばれていることをご存じの方も多いと思う。要するにアフリカ系アメリカ人を主役に、主にアフリカ系アメリカ人の観客を対象に作られた低予算の映画のことであるが、その背景には公民権運動による意識の高まりがあることを明記しておきたい。そしてそこから輩出したスターといえば、タランティーノの映画『ジャッキー・ブラウン』で見事な復活を果たしたパム・グリアーと、「黒人のバート・レイノルズ」と呼ばれロドリゲス監督の『フロム・ダスク・ティル・ドーン』にも出演していたフレッド・ウィリアムソンの2人をあげて異論はないだろう。じつは今回紹介するビデオはこの2人が主役なのだ。
まずパム・グリアー主演の『FOXY BROWN』(1974、監督ジャック・ヒル)であるが、じつは僕は観たくて仕方が無かった作品で、今回レビューができることは願ったり叶ったりだ。物語は、恋人とハスラーっぽい弟を殺された主人公が、女ボスへ復讐するために立ち向かうというもので、見所は逆上したフォクシーが仲間に女ボスの恋人のペ○スを切り落とさせ、それを単独で女ボスへ届けに行くシーンだ。グリアーが70年代に出演した作品は15本あるそうだが、僕は前年の『COFFY』位しか観ていない。ぜひ他の作品もビデオ化してほしいものだ。またサントラはモータウンのウィリー・ハッチが担当しているが、ハッチといえば前年の映画『THE MACK』のサントラでモータウンでのデビューを飾ったLA出身のライター兼、プロデューサー、シンガーである。モータウンがデトロイトからLAに本拠地を移したのが1972年で、ちょうどシングルヒット量産型から「ニュー・ソウル運動」によりマーヴィン・ゲイの『WHAT'S GOING ON』に代表されるコンセプチュアルなトータル・アルバムに移行する頃である。そういう意味でハッチの音楽にも注目してほしい。
次はフレッド・ウィリアムソン主演の『BLACK CAESAR』(1973、監督ラリー・コウヘン)である。物語は父親不在でギャングの使い走りをやっていた少年が、白人の不正警官の暴行への怨念から、数年後に組織へ復讐するため闘うが、見所は父親との葛藤とラストシーンである。サントラはファンクの御大ジェイムス・ブラウンが担当しているが、ポリドール時代のJBは同年に映画『SLAUGHTER'S BIG RIP-OFF』のサントラも手掛けている。この年のJBは息子テディの事故死、不可解なニクソン支持、税金滞納で訴訟など散々であったが、音楽は次の傑作『THE PAYBACK』につながるファンキーな仕上がりになっている。
70年代のブラックスプロイテーション映画はファンクと同様にかなり評価が低い。たしかにこれら大半の作品には政治的主張などはないが、60年代に優等生を演じたシドニー・ポワティエに代表されるアフリカ系アメリカ人へのステレオタイプを打ち壊し、次の80年代半ば以降のスパイク・リーやジョン・シングルトン、マリオ・ヴァン・ピープルズ監督などへの橋渡しをした点は強調しておきたい。しかもこの時期の映画と音楽との出会いも素晴らしい。考えてみればブラックスプロイテーションの先駆的作品であるメルヴィン・ヴァン・ピープルズ監督の『SWEET SWEETBACK'S BAADASSSSS SONG』はE,W&F、ゴードン・パークス監督の『SHAFT』はアイザック・ヘイズ、『SUPERFLY』はカーティス・メイフィールドが担当していた。そういう意味でミュージシャンにとってもブラックスプロイテーションのサントラを担当することは成功へのワンステップだったわけである。
★『黒いジャガー』(SHAFT)
ゴードン・パークスSr.監督の第2作『SHAFT』(1971)は、以前レビューしたパム・グリアー主演の『FOXY BROWN』(1974)やフレッド・ウィリアムソン主演の『BLACK
CAESAR』(1973)など70年代前半のブラックスプロイテーション映画の先駆的作品である。主演はティム・バートンの映画『マーズ・アタック』でグリアーと元夫婦役を演じていたリチャード・ラウンドツリーであり、評者にとってウィリアムソンとともに大好きなブラックスプロイテーション映画の男性スターである。今回は字幕スーパー付き低価格で彼の主演した代表作が発売されたので紹介する。
物語は、NYハーレムのボスから誘拐された娘の救出を頼まれた私立探偵シャフトが、旧友の属する黒軍派のメンバーとともに救出に向かうというもので、見所は主人公と白人マフィアとの銃撃戦だ。注目されるのは黒軍派の存在であるが、明らかに66年結成されたブラックパンサー党がひな型になっている。というのは、主人公が最初旧友をたずねていった集会場の壁にマルコムXの肖像が飾ってあったし、獄中の仲間への言及があるからだ。
また音楽はサザン・ソウルの御大アイザック・ヘイズが担当しているが、エンタープライズ時代のヘイズの代表作といえばやはり全米1位を記録した『SHAFT』のテーマ曲を収録したサントラだ。サントラにはヴォーカル曲が全15曲中3曲あるが、とくに「Soulsville」の出来が素晴らしい。ヘイズは翌72年にワッツタックス(65年8月のワッツ蜂起を記念しコミュニティ救済のため開かれたコンサート)のトリをつとめたが、ステージに登場する際に『SHAFT』のテーマ曲が流れていたことを思い出す。ということで、『SHAFT』から70年代初頭のアフリカ系アメリカ人のさまざまな政治的・社会的メッセージを読み取ることが可能であろう。