Richard Rorty(1931〜2007)

up!!★リチャード・ローティ『偶然性・アイロニー・連帯 リベラル・ユートピアの可能性』(原書1989年、齋藤純一・山岡龍一・大川正彦訳)、岩波書店
私たちはいま私たちがいるところから出発する以外にない−このことが、私たちは私たちが同一化しているコミュニティの「われわれ-意図」以外のいかなる義務のもとにもない、という(引用者註:フリッド・)セラーズの主張がもつ力の一部である。このエスノセントリズムの呪いは、「人類」あるいは「すべての理性的な存在者」といった最大限の集団をもちだせば解けるものではない。これまで主張してきたように、そのような集団に自らを同一化しうる人は誰もいない。その呪いを解くのはむしろ、それ自身を拡張し、さらに大きな、いっそう多様性に富むエトノスを創造するのに貢献する、「われわれ」(「われらリベラルたち」)のエスノセントリズムなのである。ここでいう「われわれ」は、エスノセントリズムに疑いをいだくところまで到達した人びとからなる「われわれ」である。
引用者註
エトノス(ethnos):ギリシア語。英語でいうエスニック・グループ。もともとは異教徒や異邦人を指した。
エスノセントリズム(ethnocentrism):自民族中心主義。否定的な意味合いで使われることが多いが、ローティはエトノスの原義をふまえている。なお英語のエスニック(ethinic)には「少数民族」という意味がある。


up!!★リチャード・ローティ「グローバリゼーション、アイデンティティの政治、社会的希望」(初出1996年、須藤訓任/渡辺啓真訳『リベラル・ユートピアという希望』所収)、岩波書店
わたしの考えでは、……プラグマティズムの主張、理性は対話的に捉えられるべきであるというハーバーマスの主張、そして、いわゆる「主体の死」といった主張は、すべてそれぞれ、おなじ反権威主義的な哲学の運動を構成する一部分である。この運動がしかるべく向けられているユートピアとは、あらゆる人間の道徳的アイデンティティが、民主主義社会への各人の参加意識によって、全部ではむろんないにせよ、その大部分において構築されているようなユートピアである。この種の哲学が政治にとって重要な意味をもつのは、それによって人びとが、民主主義的共和国の実際のないし想像上の市民であるということを中核とするような自己イメージをもとうという気になるからにほかならない。この種の反権威主義的哲学は、自分は大いなる人種の冒険、グローバルな規模で行なわれる冒険、に参与していると見る自己イメージを、宗教的あるいは民族的なアイデンティティよりも優先する一助となってくれる。この種の哲学は、ユートピア的未来の可能性について想像力を自由に働かせるために、いわば、行く手を遮っている哲学を一掃するのである。
引用者註
ローティが、人間の自由と社会正義を重視する反権威主義的な哲学者として評価しているのは、デューイ、ハーバーマス、デリダの3人である。


up!!★リチャード・ローティ「サイモン・クリッチリーへの応答」(原書1996年、青木隆嘉訳『脱構築とプラグマティズム 来たるべき民主主義』所収)、法政大学出版局
クリッチリーのようなデリダ主義者と私のようなデューイ主義者との違いの一つは、デューイが「何が問題であるか」と問うことを要求するのに対して、デリダは物事を問いにさらしたがることである。われわれの態度は、壊れていなければ修理しないという態度である。仕事がもっとうまくやれる他の道具を思いつくまでは、それを使いつづけるのだ。デリダ主義者は、問いを立て、問題化し、苦境に陥らせるにつれて(mettant-et-abime)、ますます平日の仕事がうまくいくと考えがちである。ところがデューイ主義者の方は、自分のやっていることに確信がもてない状況−デューイの言う「問題的状況」に陥ったときにしか問うべきではないと考えている。自分は何を望んでいるのか確信がもてないとか、古い道具が自分の望みを達する最前の手段であるかどうか確信がもてないとか、さらには困惑にこの二種類の不確実さが同時に含まれているということがあるかもしれない。しかし、そうした不確実さのために苦しんでいるのでないかぎり、問題化するのは週末まで延ばすべきだ。