角田光代が直木賞を受賞した『対岸の彼女』は、これまで書き続けてきた最良のものを一気に落とし込んだ傑作である。はっきり断言しよう。この『対岸の彼女』は、角田光代の作家歴15年の作品の中で珠玉の1作である。僕はこの本を読んだとき確信した。「時代は角田光代のものだ」と。大げさに言っているつもりはない。百人いたら百人の人が納得する作品。老若男女あらゆる人が読むべき1冊。それが『対岸の彼女』である。
では、以下角田光代の作品を振り返りながら、『対岸の彼女』の内容を分析してみよう。
90年に『幸福な遊戯』で純文学デビューした角田光代は、初期作において、一貫として日常生活に潜む違和感を描き続けてきた。たとえば『学校の青空』(95)所収の短編「パーマネント・ピクニック」は、中学2年生のちいの自殺計画を描いたものだが、その過程でさまざまな違和感を抱く。それは、祖母の薄暗い部屋であったり、男の子の淡い性欲であったり、学校だったり……思春期の女の子特有の違和感である。こうした違和感は角田独特の筆致でさまざまな作品に描かれ、時にマジックリアリズム的な不思議な世界が醸し出されたりした。
『まどろむ夜のUFO』(96)所収の表題作などは、そのマジックリアリズム的な手法が開花した作品だろう。この作品は、トンデモ本の好きな弟が、夏に上京し主人公の姉の部屋に住みつき、さらに電車で知り合った怪しい青年の段ボールハウスに移り住むという話であるが、登場人物のキャラクターだけでなく、その描かれた世界自体が少しずれた不思議な場であったりする。角田光代の世界は、基本的に日常生活と地続きの世界であるが、それは同時に「他界」に通じるような世界でもあり、読む側の主体性が揺らいでしまう時が多々ある。まるでメビウスの輪のような捩れた世界とでも形容するしかない。
『ぼくとネモ号と彼女たち』(旧題『カップリング・ノー・チューニング』、97)あたりから旅を題材に、「移動」と「ある種の共同性」といったテーマが前面に出てくる。この角田初のロード・ノベルは、主人公の本橋くんが、助手席に乗る3人の女性との何気ない会話を主軸としたもので、郊外という文脈でも語れるが、日本国内を舞台としていた。『みどりの月』(98)所収の「かかとのしたの空」では、舞台を東南アジアへ移し、アジアン・ゴシック的なディープな仕上りになっている。
物語は、夫婦である男女がアパートを引き払い、タイのバンコクから気の向くまま途中下車をしながらマレー半島を南下していくもので、ラストの女主人公の内面を描写した部分など、掘下げが一段と深くなりその筆力は他の追随を許さない。この流れの作品に、『東京ゲスト・ハウス』(99)や『真昼の花』(旧題『地上八階の海』、00)所収の表題作などがあり、一連の作品で「移動」と「ある種の共同性」といったテーマを導入したために、その後の舞台を固定した作品にも幅ができた。事実、『空中庭園』(02)では、郊外の集合住宅で暮らす京橋家を中心に、6人、つまり父・母・娘・息子・祖母・父の愛人(息子の家庭教師)の立場から描き分けるなど、複数の視点を作品に導入し、結果的に多面的な作品に仕上がっている。
恋愛至上主義の山田さんを主人公にした『愛がなんだ』(03)では、都合のいい女となじられようが、マモちゃんに捨てられようが、どこにも例がない関係性を作り出そうとする。また『トリップ』(04)では、同じ町に暮らす女子高生、主婦、サラリーマン、ストーカー、小学生などの危うい生活を扱い、さまざまな世代の人間を描き分けることで、逆に下町の商店街のトポロジーを浮き立たせることに成功している。いい意味で力を抜いたこれら作品においても、描き出された世界は独特である。
そして『対岸の彼女』である。本作は、映画配給会社を寿退社し一児を設けた小夜子の再就職の過程と、再就職先の旅行関係の便利屋で、サイドビジネスの掃除代行を展開しようとしている葵の高校時代のある事件がパラレルに描かれた長編大作である。小夜子は、結婚五年目となり「公園ジプシー」で悩むより、自分が働きに出れば子どもの社交性も育つと考えて、掃除代行の仕事によって徐々に自分の居場所を作っていく。他方、葵の高校時代の話は、いじめが原因で母の実家のある町の高校へ転校し、そこで知り合ったナナコという親友と夏に伊豆のペンションで住み込みバイトを経験した後、そのまま逃避行し飛び降り心中未遂事件を起こしてしまう。
この作品が、これまで書き続けてきた最良のものを一気に落とし込んだと先に述べたが、それはたとえば葵の高校でのいじめの気色悪さ、河原の隠れ家、国内外の旅といったアイテムを散りばめたからではない。角田光代が15年来一貫として描いてきた、心の空洞や喪失感、それでもなお居場所を求め生きようとする気持ちが、痛いほど伝わってくるからである。
これまで角田光代は、擬似家族的な共同生活者やフリーター、トラベラーといった「浮遊する若者たち」を描き続けてきた印象がある。しかし、『対岸の彼女』の素晴らしいところは、主人公の2人だけではなく、葵の夏のバイト先の亮子、ナナコと秘密に再会させた葵の父、小夜子に掃除代行を訓練した典子、サポートセンターで紹介された夫婦など、それぞれの思いが陰に日向に2人を支え、彼らにも過去にいろいろな思いがあったことを暗示している点である。百人いたら百人の人が納得する作品、老若男女あらゆる人が読むべき1冊というのは、時代や世代を超えた普遍的な「生きる」というテーマが伏流しているからだ。『対岸の彼女』は、間違いなく角田光代の1つの到達点である。
角田光代は、これまで述べた純文学系の作品以外に、児童文学として『ぼくはきみのおにいさん』『キッドナップ・ツアー』、エッセイとして『これからはあるくのだ』『恋するように旅をして』(旧題『恋愛旅人』)などがある。特に旅のエッセイ集『恋するように旅をして』(01)は、無人島に持っていくものを3冊選べと問われたら持っていこうと思っている1冊で、個人的な琴線に触れている。それはともかく角田光代の作品を今回すべて読み直して驚いたものがある。それはデビュー作『幸福な遊戯』所収の「無愁天使」である。この短編は、狂ったように散財する家族を描いたものだが、角田光代はこういうメタフィクションに進む可能性もあったのだ。実に間口の広い作家だと思った。
★受賞後の主な作品(短いレビュー掲載予定)
『夜をゆく飛行機』
『薄闇シルエット』
『八日目の蝉』
『ロック母』
『三面記事小説』
『予定日はジミー・ペイジ』
『マザコン』
『福袋』
『三月の招待状』
『森に眠る魚』
『くまちゃん』
今回の芥川賞候補はいずれも実力派揃いだったが、結局、伊藤たかみの「八月の路上に捨てる」(のち『八月の路上に捨てる』に収録)が賞に選出された。彼が芥川賞を受賞したことは、未知の読者がその作品に触れる機会が増えたという意味において、大きな意義を有している。周知のように、芥川賞は直木賞のように単行本に対してではなく、主に雑誌に発表された純文学系の短編作品に贈られる賞である。つまり直木賞が「線」だとすれば芥川賞は「点」であり、「点」(短編)をもって多くの読者は伊藤たかみの世界に触れるわけだが、「点」だけで作家の魅力を語れないのは言うまでもない。
また伊藤たかみは、小学6年生の双子を主人公にした『ミカ!』(99)と、中学生4人のバンド仲間の友情や恋を描いた『ぎぶそん』(05)で文学賞を受賞するなど、児童文学で括られるジャンルでも高く評価されている。つまり「八月の路上に捨てる」だけを読んで、伊藤たかみの世界は語れないのだ。実際、彼がこれまで描き続けた作品は、切ないのにどこかカラッとしていたり、ポップなのに人間同士の複雑な関係や心の傷をきちんと描いていたりする。現代日本の純文学系作家を見渡して、その独特な筆致は他の追随を許さない最高峰の作家だと思う。では、伊藤たかみのこれまでの純文学系の作品を振り返りながら、芥川賞に至る軌跡を辿っていこう。
95年に『助手席にて、グルグル・ダンスを踊って』で鮮烈なデビューを飾った伊藤たかみは、基本的に日常生活に根ざした題材を精緻に描写する「ミニマリスト」だという評価がある。英米文学で言えば、レイモンド・カーヴァー、ジェイ・マキナニー、デイヴィッド・レーヴィットといった系統に連なる作家ということだ。「ミニマリズム」といえば、簡潔な会話、乾いた文体、細部に拘った描写といった特色があるが、「青春」を題材にした作品から、「擬似家族」や「喪失感」といった一連の「ミニマル」なことをテーマにした作品を通読すると、それらを踏まえつつも独特な「伊藤ワールド」ともいうべき世界が描き出されている。
まず初期の「青春」を題材にした作品として、デビュー作を取り上げてみよう。本作は、高校3年生の男女のひと夏の恋と別れを描いたものである。カオルは山手出身で、ミオは下町の西区出身のキュートな女の子。まあ理想的なカップルの恋愛話じゃんと思われそうだが、両者とも家庭では複雑な関係にあるし、ある種の差別問題も伏流している。また日常生活に潜む不安や孤独が、さりげない会話の中に挿入されたり、よく読めば切実で深いテーマの物語なのにポップに昇華している。これは『17歳のヒット・パレード(B面)』(96)や『卒業式はマリファナの花束を抱いて』(97)にも言えることだ。
このうち後者ではある種の「擬似家族」といったテーマが潜在している。このテーマが前面に出たのが『ロスト・ストーリー』(99)だろう。本作は、「擬似家族」が新しい物語を探す作品。前半はポップな作風だが、後半はかなり印象が違い、晴美と小説家の僕がセックスした後、高田馬場のアパートで僕とナオミが再会し、そこから物語がメタフィクションへと大きく展開していく。この際、仕掛けとして使われたのが高田馬場と横浜の地下鉄三番ホームという何処にもない場所である。要するに、物語の内にもう1つ別の世界を設定することにより、僕の物語ではない空間に主人公がはまり込み、ナオミの過去の記憶を追体験していくのだ。本作は「擬似家族」という「ミニマル」なテーマであるが、多元的な現実を表象するためにメタフィクションの手法をさりげなく導入しているという意味で、新境地を開いた作品だといえよう。
このような新境地は、自殺志願者のサイトで知り合った2人のやりとりを描いた『リセット・ボタン』(00)や、いびつな指をもち身体が外れる特異体質の僕を主人公とした『アンダー・マイ・サム』(01)にも該当する。とりわけ後者の身体が外れるというアイディアは、キャラクターの分離=解体であり、分離した僕がもう1人の僕を眺めることにより思春期特有の心理描写に深みを与えることに成功している。また『盗作』(03)は、自殺した友人が残したフロッピーと彼の名をペンネームにして作家になった主人公が、その死の真相を追い求めた自己言及的なミステリー仕立ての作品。読者も主人公とともに「謎」を追い求めているうちに迷宮にはまり込んでしまうが、この作品以降、伊藤たかみは「喪失感」をテーマとしているように感じる。
たとえば『指輪をはめたい』(03)は、男がある事故を契機に記憶障害になったため思い出せないプロポーズ相手を求めて、付き合っていた3人の女性の誰と「結婚」しようとしていたかを追う物語である。記憶(時間のつながり)が消失すると、その人物は瞬間を生きることとなり、すべてが既視感を伴うものとなる。また『雪の華』(04)は、嗅覚で人の「形」が見える共感覚の優と、亡くなった京子の「形」に似た七海を主人公とした小説である。共感覚は一般に「ある刺激がそれ本来の感覚だけでなく、それに付随し別の感覚をも生じさせる現象」である。この2作は、一見すると救いがないのにそれを微塵も感じさせることなく、ポップさと文学の技巧を兼ね備えている稀有な作品だ。
最後に2度の芥川賞候補作に言及しておこう。最初の候補作「無花果カレーライス」(05、のち『ドライブイン蒲生』収録)は、離婚を経験した主人公と腐れ縁の友人が、お互いの家族などのことを思い起こしながらカレーを作る話で、実母や元妻に対する愛憎といった両義的な思いが「無花果の花」に仮託されている。次の候補作「ボギー、愛しているか」(05)は、友人と二人で一九歳の時に溺死したボギーの命日に故郷近くのW島に赴く話で、面白いのは、主人公が妻のブログにコメントをつけ、自分もボギーになりすましてブログを開設するというアイディアだろう。主人公を通してみたボギーという男の輪郭、トラックバックすることで覗える妻の反応など。また両作品とも因果な中年男の哀しみが与太話の会話の中に語られており、「八月の路上に捨てる」に至る新感覚の「伊藤ワールド」というべき作品になっている。確実に伊藤たかみは成長し続けている作家だと思った。
★受賞後の主な作品(短いレビュー掲載予定)
フラミンゴの家
カンランシャ
海峡の南
「壊音 KAI-ON」
篠原一は、「壊音 KAI-ON」(のち『壊音 KAI-ON』、さらに『壊音 KAI-ON/症例イデム』に再録)にて文學界新人賞を史上最年少で受賞した作家である。彼女が受賞したのは1993年。高校2年生で17歳だった。ところが本人に確認したところ、「壊音
KAI-ON」は16歳のときに書いたものだそうだ。たしかに応募の〆切が5月、彼女の誕生日が6月中旬であることから分かるように、「壊音 KAI-ON」は16歳のときに出来上がっていた。
日本の近現代文学史を紐解いて、ある作家が16歳のときに書いたもので、多くの人から賞賛の声を浴びた作品は見あたらない。たとえば芥川龍之介が処女作「老年」を発表したのは22歳である。また島田雅彦が「優しいサヨクのための嬉遊曲」でデビューしたのも22歳である。近年、若手作家が10代でデビューしているから、篠原の例などけっして珍しくないという声もあろう。とはいえ「壊音
KAI-ON」を読んだら分かるが、その想像力と筆力は他の追随を許さないものがある。
では作品の特色を3点に整理してみよう。
第1に、読者の五感を刺激する描写が多い点である。たとえばVの冒頭「喧噪が耳障りだった」から「タキの視覚が僕の視覚に訴える。聴覚が耳に突き刺さる轟音に混同する。腐臭をかぎわける嗅覚。触覚や味覚は僕らより確かなイメージを伝える。横たわる死体。水の流れる具合。舌の上に転がる刺激は、ドラッグスだ」あたりまで一気に読んでみよう。引用文に、人間の五感である視覚、聴覚、嗅覚、触覚、味覚という単語があるからというだけでなく、Vの冒頭から引用文まで約2頁を読むとわかるが、読者の全感覚の相互作用を生み出した結果、ある種の複合的感覚を味わえる描写となっている。
第2に、その複合的感覚が、世界の歴史や地球での生命の誕生といった記憶と結びついている点である。Vの冒頭から引用文まで約2頁をもう1度読み直してみよう。飛行場をもつ基地、敵機が飛び交う空襲の街といった戦争の記憶。地球の生命の水、種の進化といった人類誕生以前の変容のプロセス。読者はこれらの記憶に全感覚を刺激されつつ、「ちょうど絡み合う二本の螺旋のように……同調してゆく」のだ。しかもハジメとタキは「互いに。互いの肉体に。互いの精神に。魂に。そして世界に」同調するのだが、そのスピードはドラッグスの高揚感に促されたものである。その結果、読者の身体、精神、存在そのものも拡張されてゆく仕掛けとなっている。
第3点は、ある種の破壊衝動や願望に取り憑かれた篠原作品の原点であることだ。当該箇所でいえば、ハジメとタキの意識の中で起こる地球での生命の誕生という出来事は、「種の進化の途中で自分の意志で砕けて」しまう。また2人の複合現実の中で同調するイメージはずばり「横たわる死体」である。篠原が『誰がこまどり殺したの』『天国の扉』『アウト トゥ ランチ』などへと輻輳する作品群に登場する死体は、モノである。それらの死体は、概ね捨てられたモノであり、その原点がここに「横たわる死体」であることはいうまでもないだろう。とはいえ「壊音
KAI-ON」では、ある種の破壊衝動や願望に取り憑かれつつ、あくまで死と暴力のイメージで止まっている。
「症例イデム」
そして、時を経た15年後。篠原一は「壊音 KAI-ON」の続編として「症例イデム」(『壊音 KAI-ON/症例イデム』に収録)を発表した。実父の死や結婚、大学院修士課程の修了をへて32歳にして世に出した作品である。「壊音 KAI-ON」から「症例イデム」へ至る間の他の篠原作品との関係を論じることも重要である。しかしながら、評者はあくまで「壊音 KAI-ON」と「症例イデム」との違いに拘りたい。なぜならこのいわゆる「壊音」シリーズは、3部で完結する作品であるからだ。つまり篠原作品の中で、このシリーズは一貫性を持ちながら、作者を囲繞する社会、文化環境、歴史といった外部と相互に干渉し合い、対話する論理構造を有する連作ものだと思う。
では前作とどこが違うかのか? ポイントを3つほど指摘しよう。
第1に、ある種の破壊衝動や願望がイメージでなく、単一のイデアを粉砕する暴力装置として機能している点である。じつは篠原が大学院で研究していたのは、フロイトの精神分析学をいかにメディア論と分離=接合するかという課題であった。そこから類推するに、フランスの記号分析学(セマナリーズ)に近い研究を、ドイツ語の文献をあさりながら行っていたと思われる。フロイト/ラカン派の流れを汲む記号学者といえば、ジュリア・クリステヴァである。彼女の論文「ポリローグ」は、ソレルスの『H』を論じたものであるが、単一の論理による意味が「症例イデム」においても線状に分断され、多数の論理(ポリロゴス)として、言語が多声化されている。
第2に、誰でも気づくことだが、主役がハジメとタキではなく、ハジメと日向子に代わった点である。しかも日向子は、ハジメとタキの同調する意識の中における異物かのごとく、ハジメの手により包丁によって胎を刺され、その胎児は引きずり出される。クリステヴァばかりを援用して申し訳ないのだが、この結末を読んで『恐怖の権力』における「アブジェクシオン」なる概念をすぐさま想起してしまった。この概念は、簡略にいうと、前エディプス期における幼児が、母の身体をおぞましきものとして嫌悪して棄却し、自我の輪郭を獲得することである。「症例イデム」においてハジメは、前エディプス期の母子融合などくそ食らえとばかり胎児の段階で引きずり出す。フロイト殺しのような展開である。
第3に、ハジメがタキと出会う場が夢の世界だという点である。夢とは、睡眠中に生じる自覚的な体験にうちで明瞭な感覚的な映像のことである。通常の夢は、バラバラで、精神的な現象の間の連関はなきに等しい。フロイトを研究している人には常識だが、夢は、圧縮・移動・置換・二次的な加工のプロセスをへて生じるものである。しかしながら、「症例イデム」でハジメが見た夢は、覚醒時にアイデンティティが維持されている「思考」に近く、明確で合理的に配列・選択されている。キーワードは「イデム」=「同一人[物]、同様なもの」である。この「イデム」が「壊音」シリーズ第3部で、どのような意味を持つのか興味は尽きないだろう。
★その他の主な作品(短いレビュー掲載予定)
『ゴージャス』
『きみよわすれないで』
『アイリーン』
『電脳日本語論』
『ぼくはスクワター』