up!!★ガヤートリー・スピヴァク「エドワード・サイードについて考える−回想記から」(原書2005年、『エドワード・サイード 対話は続く』所収、粟屋利江訳)、みすず書房
もう一つの大きな会議はエセックスで行われた会議だ。……会議については何の記憶もない。エドワードと私は、タラール・アサドの一歩前を、陽のふりそそぐ草深い丘陵をよぎって歩いていた。アサドとは会ったばかりだった。エドワードは私の髪をくしゃくしゃにして言った。「ぼくたちは、ここでは見世物だ」。マルケット大学の会議では、ホールの片隅に置かれた、絶望的なまでに調子のはずれたピアノで、「わたしのために弾いてくれた」。わたしはこうした快いひとときをけっして忘れないだろう。それは当時、合衆国の大学で、アジアの各地からやってきた人間たちのあいだに欠落していた連帯を表明するやり方だったのだと思う。……わたしはヒンドゥー教がアニミズムとほとんど識別できなかった時代にさかのぼる、あの野性的な賛歌を唱えよう。熟れた果実がその皮を突き破るように、不死は死を突き破る。家族と友人の愛に包まれながら、学ぶものの知的な旅は続く。しかし、無情にも、文字通り、死んで埋められ、容赦なき不死に直面して、こころは破裂せずにはいない。
引用者註
2003年死去したサイードへの追悼文。
★ガヤトリ・C・スピヴァク『スピヴァク みずからを語る−家・サバルタン・知識人−』(原書2006年、大池真知子訳)、岩波書店
思うに、合衆国でいま起きていることについて言えば、あのような想像力の死が見られるのは恥ずかしいことです。想像力とは、他たる人たちに到達することができるものなのです。そう、マーティン・ルーサー・キングの名演説にあるように。一九六七年、リヴァーサイド教会でなされた「ヴェトナムを越えて」という演説で、キングは「私の敵と目されている人の人間性を想像することが必要だ」と言いました。もちろんそのとき、彼はキリスト教徒として語りました。私は敵を愛して敵のために死んだ人の名を借りて語ります。私はキリスト教徒ではないし、宗教的でもありませんが、キングの言葉を単独性の語り、証明不可能な語りとして解釈することはできます。
up!!★G.C.スピヴァク「ジャック・デリダへの謝辞に向けたノート」(原書2007年、『来るべきデリダ−連続講演「追悼デリダ」の記録』所収、藤本一勇監訳、澤里岳史・茂野玲訳)、明石書店
デリダのもろもろの問いは痕跡を追跡する。すなわち、痕跡としての〈私〉とは何か、〈私〉の母が死ぬとき〈私〉は何の喪に服すことになるのか、という問いである。私は『弔鐘』に見られるある強迫観念に言及した。それは〈私〉が父の名を保持したいま、〈私〉がいかにして一個の所記であるかについての強迫観念であった。母の痕跡の追跡が、デリダの母の死に際して書かれたねじれた喪のテクストである「割礼告白」のなかで残余するために横たわっていることは驚くべきことではない。『弔鐘』と違って「割礼告白」は書物ではない。それは一冊の書物の欄外にある対抗言論にすぎない。すなわちジェフリー・ベニントンという別の人間が書いた、著者の権威をもつ『ジャック・デリダ』と呼ばれる一冊の書物のなかで、父系名の本性を決定的に固定しようとする企てと連結しない匍匐性の脚注である。「割礼告白」は表題の一部ではない。それはデリダの名が付いた書物の建築構造にとって過剰なものである。「でも脱構築について正しくあるとはどういうことでしょうか。あなたが「割礼告白」で演じたゲームを思い出します。ペネロペを演じるオデュッセウスのように、あなたはジェフの完璧な脱構築の説明をほどきました」と、私はデリダの七十歳の誕生パーティで彼に言った。おそらくそのときデリダは女性の手本に従っていたのだろうか。とにかくその企ては、ベニントンが「デリダ思想」として要約するだろうものを無効にすること、一日一日、ただコンピューターが可能にするがぎり……、反例を提示することでもあった。
引用者註
2004年死去したデリダへの追悼文。
★ガヤトリ・C・スピヴァク『スピヴァク、日本で語る』(原書2009年、鵜飼哲監修、本橋哲也・新田啓子・竹村和子・中井亜佐子訳)、みすず書房
一つの言語は、いつも偶然に規範化されてしまうのです。そうである以上、国という制約を逃れ、世界中のサバルタン言語が居並ぶ地平を横断しつつ、深い言語修得を通して、等価性の幻影を思い描きましょう。個々の語法の多様性と固有性は、言語の固有性を常に喚起し続けます。言語は物質面では同等でないという事実は、歴史的な研究を促すでしょう。……私の結論とは、「学問的方法といえども、抜け目なくあり続けよ」です。語法に注目し、テクスト分析をもとに論証を行い、レトリックの中にロジックを、ロジックの中にはレトリックを組み立てる技術に秀でること。それがここでの狙いです。ですが、比較文学者ならではの研究目標がある限り、私たちは、テクストが本来位置した時空の外にはみ出す現象を認識するでしょう。学問の慣習は、こうして通常ならば避けて通られるような領域に向かい、拡張していくのです。