★オルタナティヴな共同(−)体へ
−ルネ・シェレール『ノマドのユートピア』(杉村昌昭訳、松籟社)を読んで−
1.歓待性(hospitalite)
筆者であるルネ・シェレールは、すでに『歓待のユートピア』(安川慶治訳、現代企画室)が翻訳されているので御存じの方も多いと思う。映画監督エリック・ロメールの弟でフランスにおけるフーリエ研究の第一人者である。したがって本書もフーリエの反文明的ユートピア思想を中心に、カントやサド、ニーチェ、フッサール、ハイデガー、バタイユ、クロソウスキー、ベンヤミン、レヴィナス、バルト、ジュネ、ジャベス、フーコー、ドゥルーズ/ガタリ、オッカンゲム(シェレールのパートナーでエイズで死去)等の複数のテクストを横断しながら、「歓待性」や「生成変化」、そして現実をよりよく生きるためのユートピア論を展開する。実に生産的でいい仕事だ。
まずシェレールのいう「歓待性」(hospitalite)とは何か? 『歓待のユートピア』第2章において彼は、カントの1795年の著書『永久平和のために』において定式化された近代国際法の第3条項、すなわち「世界市民法は、普遍的な歓待のための諸条件に制限されてなければならない」という条項を援用して、まず「されなければならない」の表現に注意を促す。つまり「されなければならない」とはsollenの命令形としてア・プリオリにあり、「世界市民法」の創設はただ「歓待」だけを必要とし、「世界市民法」は「普遍的歓待」の確立に外ならないという。その理由はきわめてシンプル、カント曰く「なぜなら地球は丸いから」である。換言すれば、地球は「球面」であり、人間や動植物が地表面を占めること、つまり「共同所有」あるいは「共同存在」は運命づけられているわけである。したがって当然、僕たちがとりあえず住んでいるこの日本列島も地球の一部であり、日本あるいは日本人という想像された「民族的=国民的なもの」の固有の領土でなく、歓待の法への生成のため絶えず「外部」に開かれ「普遍的歓待」の名の下にあらゆるマイノリティと連携しつつ、ピエール・クラストルが1974年刊行した『国家に抗する社会』でいう「国家なき社会」の可能性を検討する必要があるのだ。ここで慧眼の読者はクラストルといえばドゥルーズ/ガタリの『ミル・プラトー』におけるノマド(戦争機械)を想像するであろう。それはまったく正しい。
2.ノマドのユートピア(utopies nomades)
シェレールの『ノマドのユートピア』は、『歓待のユートピア』で提示した「歓待性」の概念にドゥルーズ/ガタリの思想を取り込むことにより、1989年のソ連邦、東欧という社会的ユートピアに依拠した様々な政治的システムが崩壊した後の現代において、新たなユートピア思想を復権する試みを行った著書といっていいだろう。その際のキー概念がドゥルーズ/ガタリのいう「ノマド」(nomades)/「戦争機械」(machine
de guerre)に外ならない。では「ノマド」とは何か? 「ノマド」とは「遊牧民」のことだが、ドゥルーズが1968年に刊行した『差異と反復』の結論において、プラトンのイデア論、デカルトのコギト、ヘーゲルの弁証法等の西洋形而上学における「表象=再現前化」の四重の首枷、つまり「概念における同一性、述語における対立、判断における類比、知覚における類似」に服する限りでの存在の分配を司る「定住」的思考の在り方に対して、差異と反復からなる「大洋の自由な諸差異の、ノマド的諸配分の、もろもろの戴冠せるアナーキーの状態」を「ノマド」的思考の在り方であると示唆した。その後1980年にドゥルーズがガタリと共著した『ミル・プラトー』の第12章「一二二七年−遊牧論あるいは戦争機械」において、ドゥルーズ/ガタリは「国家は捕獲装置である」と定義した後、「ノマド」(遊牧民)を起源とする「戦争機械」(戦士)がそうした国家権力からの相対的に自立しているという点を指摘する。つまり「ノマド」(遊牧民)を起源とする「戦争機械」は、生成変化や相互作用の中にだけ存在するのであり、国家に抗するための生成変化と逃走線を描く戦略的武器として存在するのである。
シェレールによると、「ユートピア」(utopies)もまた「ノマド的に循環し、分配されるもの、あれこれの問題、あれこれの状況に応じて、つねに特異性をもって出現するもの」であるという。したがって「ユートピア」は「自己中心的で視野の狭い国のなかで異邦人として作動する」のであり、現働化していなくても「今、ここ」で潜在的状態として現前しているのである(ベンヤミン的にいうと、「かすかなメシア的な力」ともいうべきものである)。ではそうしたシェレールのいう「ユートピア」は旧来のユートピア思想とどこが相違するのであろうか。シェレール曰く「ヨーロッパ共産主義を打ち倒した諸革命がみずからの延長線上に見いだすことのできるもの」、つまりカール・マンハイムが『イデオロギーとユートピア』の中で「あるユートピア思想をあるイデオロギーの特殊型」として学問的に扱った意味ではなく、現実の「今、ここ」で見出すべきものなのである。
ここでシェレールの『歓待のユートピア』第2章における「歓待性」の定義を思い起こそう。シェレールは『歓待のユートピア』において、カントの1795年の著書『永久平和のために』において定式化された近代国際法の第3条項、すなわち「世界市民法は、普遍的な歓待のための諸条件に制限されてなければならない」という条項を援用して、「世界市民法」の創設はただ「歓待」だけを必要とし、「世界市民法」は「普遍的歓待」の確立に外ならないと述べ、その理由として「なぜなら地球は丸いから」と示した。本書でも第1章「ユートピアの再定義」においてこうした「歓待性」の定義を再確認し、「この歓待性という概念は、同時にまた、イメージでもありスローガンでもある。それは、いいかえるなら、人びとが自由に往来し、受容し、定住することを可能にするものだ」と再定義している。それはいわば僕たちがこの地球上に「共同存在」として住まうことであり、ゆえに人々の「定住」と「移動」は密接不可分な権利としてあるのだ。したがっていかなる現実主義、リアル・ポリティックも「国民」や「民族浄化」等の名の下でこの権利を奪い取ることは出来ない。
3.共同体(communaut )あるいは共同−体(corpus)
僕が解説してきたことは、『ノマドのユートピア』の第1章から第4章の輪郭においてシェレール自身が語っているので読んでいただき、第5・第6章の生活態の問題、第七章の教育の合目的性の問題、さらに第8〜第11章のユートピアの聖人として描かれているオッカンゲム、ジュネ、ガダリ、ドゥルーズの肖像についても個別の問題群として是非通読してほしい。では僕は最後に何を語るべきか? それは先に言及したピエール・クラストルの『国家に抗する社会』で語られた「国家なき社会」の可能性の問題を、シェレールの『ノマドのユートピア』第13章「団のユートピア」の内容を検討することで解答するという作業である。
周知のように、クラストルはフランスの政治人類学者で、南米パラグアイのノマド(狩猟遊動民)のグアヤキや、パラグアイからブラジルにかけて居住していたグアラニの末裔たちをフィールドワークし、「国家」に最も深い無意識の部分まで浸透された僕たち文明人の思考の中に、外部に開かれた空間を切り開くことを意図したテクストが『国家に抗する社会』である。まずクラストルによると、南米インディアンの大部分の部族は1500年の時点で大部分が定着農耕民であり、森林に住むノマドのグアヤキは16世紀末にトウモロコシの耕作を放棄したと言う。また広範囲に居住したグアラニは、15世紀末の白人の到来以来のイエズス会の権威に服さず、エンコミエンダ(スペイン王権が私人に一定地域の現住民の権利・義務を信託した制度、端的に言えば奴隷制度)の支配からも逃れ、他の南米諸社会と相違して16〜17世紀にかけて唯一人口が増加したという。
クラストルのいう「国家なき社会」とは、これら南米インディアンのグアヤキ、グアラニのノマディックな社会をモデルにしていることは疑いない。無論この「国家なき社会」においても政治権力は内在している。しかしそれは強制的権力ではなく、各部族の首長が発する儀礼的な生活規範の語りに象徴されるように非強制的権力である。ゆえに西欧文明にみられる「国家」を形成する社会では語りは権力の持つ権利であるのに対して、「国家なき社会」においては語りは権力の義務として機能する。あるいは「国家」を形成する社会における2つの公理、すなわち「真の社会は国家という庇護者の影の下でこそ自己を展開する、労働せねばならぬ」という公理は、「国家なき社会」においては無視され、たとえばグアヤキの場合、望みさえすれば財の生産を増加させるのには充分な時間を持っているにもかかわらず、労働に割く時間はごく僅かで一日の半分を完全な無為のうちに過ごすのだ。要するに「国家」を形成する社会において自分たちの必要以上の労働するというのは、外在的な強制力(国家の要請)以外なにものでもなく、「国家なき社会」においてはこのような強制力が不在なのである。
さてここでフーリエのユートピア思想を援用したシェレールの『ノマドのユートピア』の第13章「団のユートピア」を参照しよう。シェレールのまとめによるとフーリエは西欧文明には原理的/必然的に抑圧ならび抑圧のための諸制度によって僕たちの欲望が充足されない様にする本質的機能が含まれているという。たとえば僕たち文明人は、金がない、旅行したい、いい家に住みたいという欲望を充たすことが出来ない場合、絶えざる不安に陥るが、そのような欲望や不安は無根拠であり、クラストルが述べたように自分たちが必要以上の労働するというのは、外在的な強制力(国家の要請)以外なにものでもないわけである。しかしフーリエのいう「調和世界(階調社会)」においては、そのような欲望は別のもっと複合的で増大した強力な欲望(内在的な欲望)と結合する。その結合した欲望は「欲望」なき情念、つまり「すべてが生産的であり、すべてが機械的になった欲望」であり、常に新たなアジャスマン(配備)を求めて作動するものなのである。そしてその欲望をフーリエは、家族、学校、市町村、国家等文明化された諸制度の外部にある不定形の集団、すなわちクラブ、寄り合い、集い、カジノ、セクト、団といったノマド的な線に移動(脱領土化)させる。いわゆる「団のユートピア」である。
「団のユートピア」においては外在的な強制力による搾取された労働というものは存在しない。そこにおいては存在するのは「共同体」(communaute)あるいは「共同−体」(corpus)的に結び合わされた有益な社会的労働という方向であり、「団」における自然発生的な熱意や官能的な活気が横溢し、現在を生成変化に向かって解き放つ場なのである。そしてそうした「共同(−)体」において唯一の掟として措定されるのが不良や盗賊の掟、官能的で選択的な「情念的友愛」であり、シェレールの『歓待のユートピア』にならっていえば、「普遍的歓待」の法への生成のため絶えず「外部」に開かれあらゆるマイノリティと連帯した「国家なき社会」/「共同(−)体」こそ「今、ここ」で見出す必要性があるのだ。それはたとえばかつてフーコーがアメリカのゲイ・コミュニティに、ジュネがブラック・パンサーやパレスチナに見出した「国家なき社会」/「共同(−)体」であるし、またジャン=リュック・ナンシーの『無為の共同体』『共同−体』やモーリス・ブランショの『明かしえぬ共同体』等の書物の中で語られた「共同(−)体」でもある。そして何よりも僕たちが「今、ここ」で日々他者と生きつつある地球上において隣人とともに見出すべき新たな「共同(−)体」であり、そこにおいてはあらゆる「人びとが自由に往来し、受容し、定住することを可能にする」わけである。
拙論を読んで、「国家なき社会」/「共同(−)体」なんて幻想にすぎないと訝るむきもあるであろう。しかしシェレールのいう「団のユートピア」は、ソ連邦崩壊や東欧民主化といった革命によってソ連邦や東欧の共産主義社会の大掛かりなユートピアの実験が、実は外在的な「国家」という強制力の下に作り上げられたディストピアに過ぎなかったということが決定的に暴露された事実、そして何よりヨーロッパ共産主義を打ち倒した諸革命が、新たな民族紛争を生み出してしまったという逆説、あるいは反動的で歴史修正主義的な言説が今日日本内外でまかり通っているという空虚さ、そうした現実を直視して考える上で僕たちに重要な示唆を与える。要するに外在的な「国家」という強制力の下で「民族的=国民的なもの」を強調するあらゆる「同一性」原理が馬鹿げた悲劇を生むのであって、僕たちは絶えず「ノマド」/「闘争機械」として逃走線を見出しつつ闘い続ける必要性があるということだ。それはちょうど旧ユーゴのボスニア・ヘルツェゴビナを巡る内戦で反体制的な独立メディアの新聞や雑誌、自由ラジオ、インターネット等が非強制的権力を行使して連帯/闘争を行ったように、僕たちは「普遍的歓待性」に基づいた「国家なき社会」/「共同(−)体」を集団的アジャスマン(配備)の問題として試行錯誤し、「国家に抗する社会」、つまりオルタナティヴな「共同(−)体」を形成する試みにおいて個人個人がマイノリティとともに/として連帯しつつ日々生成変化して行くしか方途はないのである。
「フラニーは、狼たちについてのある番組を聴いている。私は彼女に言う−きみは一匹の狼 un loup でありたいと思う? 軽蔑した様な返事−そんなの馬鹿げてる、たった一匹の狼なんかいるわけないじゃない、狼はいつだって八匹か十匹、六匹か七匹なのよ。」
ドゥルーズ/ガタリ『千のプラトー』(宇野邦一他訳)、河出書房新社より
★ラフカディオ・ハーンと日清戦争−神戸時代を中心にして
ラフカディオ・ハーンは1894年に熊本を離れ、門司から海路、神戸クロニクル社転職のために神戸へ向かった。『神戸クロニクル』は、その3年前に居留外国人のために創刊された最大の発行部数を誇る英字新聞で、ハーンは論説記者として雇用されたのである。ただ1年9カ月におよぶ神戸時代のハーンは、居留地の雰囲気になじめず、そこで活動をする居留外国人との交流を避けていた。しかもハーンは情緒不安定で、眼も患ったため、わずか3カ月で神戸クロニクルを退社している。またB・H・チェンバレンとも彼の宗教理解やハーバート・スペンサー哲学の評価をめぐり意見が対立するなど、松江、熊本、東京時代に比べて得るものがなかったというのがもっぱらの定説である。
神戸時代のハーンのトピックとしてよく取り上げられるのが、1896年にハーンが帰化手続きをして「小泉八雲」と改名したということである。僕が高校生の時、現代文の授業で、国語教師が「ハーンは日本人及び日本文化が好きで帰化した」と説明され「えー」と思っていたが、実際には国籍を収得することにより、妻のセツや1893年に生まれた長男一雄の遺産相続を可能にさせるためだったという。確かに現代の社会問題でいえば、在日外国人の帰化申請もそうした社会生活上のプログマティックな発想から(余儀なく)選択する人も多いが、ハーンの場合もう少し違った見方もできよう。「小泉八雲」の名前「八雲」は、『古事記』に収録されている和歌「八雲立つ出雲八重垣夫婦隠みに八重垣作るその八重垣を」から取って名付けたのだが、この名前とアイデンティティ問題に関して少し述べておく。
まず第1に、2つの名前を有することは、アイデンティティが複数現れてくるということだ。たとえば僕たちは両親その他から名付けられた名前にアイデンティファイすることで、それを自明のように自己のうちに内面化するのだが、それは哲学史的に言えばデカルト以来の「私は常に同一である」という近代哲学に根ざした発想である。この発想には親子関係という基本的信頼関係に基づく家族モデルが無前提に置かれている。金聖一がいうように「家族はむしろ自分とは異質な『他者』関係の始まり」とも捉えられるなら、ハーンにとってまさにこの家族における「他者」問題が「八雲」という名前に集約されている。というのは、ハーンは4歳の時にギリシア人の母ローザと別れ、7歳の時にアイルランド人の父チャールズは再婚してインドへ向い、それ以来会っていない。そうした両親との幼年期での別離や13歳の時に入学した聖ガスパート校の厳格なカトリック教育への反発が、彼の西洋のキリスト教文化に対する仮借のない批判に結びつき、その反動で日本人及び日本文化への偏愛、さらに日本名への改名へと結びついた面がある。もちろん幼年期の記憶との融和という面もあるし、複雑なのだが。
第2に、「八雲立つ・・・・」の和歌は、「出雲」系の櫛名田比売(稲田姫)と「ヤマト」系の須佐之男尊が結婚をした時に詠まれた歌であると伝承されている。古代の異なる「政治=文化」勢力である「出雲」と「ヤマト」との間の結婚という象徴には大きな意味があると思う。つまり日本人女性であるセツと外国人男性であるハーンとの婚姻は、まさに近代の二大「政治=文化」勢力である「東洋」(ハーンにとっては日本)と「西洋」との婚姻でもある。そうした異なる2つの「政治=文化」との出会いと婚姻は、日本の近代化プロセスにおける国民化と国民国家の形成という問題と不可分でもある。そこで以下においてハーンが神戸時代に遭遇した日清戦争の凱旋行事の見聞を中心にして、この問題に関し小論を試みたい。
ハーンは1890年の来日後、1904年に心臓発作で死去するまでの14年間に、日本人及び日本文化に関して10冊の著書を出版している(第11作『日本 一つの試論』は死後に出版)。1890年といえば、国内的には大日本帝国憲法が制定・施行された翌年で、この年に帝国議会がはじまり、天皇制に基づく近代国民国家「大日本帝国」がほぼ完成する。また対外的には1894年の日清戦争や1904年の日露戦争の勝利、不平等条約撤廃をへて欧米列強の仲間入りをする、と同時に台湾などを植民地にするなどアジアに対する帝国主義の端緒を開いた時期である。つまりハーンが過ごした日本は、近代化プロセスにおける国民化と国民国家の形成、及び「脱亜入欧」し帝国の版図をアジアに広げて行く時期にあたるのだ。当然この問題はハーンにとっても無関心ではいられない。
たとえば熊本時代の見聞を中心とした第2作『東の国から』所収の「柔術」(1893年執筆)の第8節以降には、当時の学校における軍事教練、天長節の慶祝が描写され、また2年後に書かれた補足には、日清戦争や不平等条約の背景などが分析されている。さらに同書所収の「願望成就」(1894年執筆)には、日清戦争開戦後、熊本での出征行事などの見聞が記されている。
熊本といえば加藤清正を軍神として祭る一種の軍事要塞都市である。「願望成就」を通読すると、いかに日本人の近世封建時代のメンタリティが近代の戦争である日清戦争に利用=動員されていったかがよく分かる。また後半には、ハーンのもとに松江時代の教え子の小須賀浅吉が訪れ、日本人の伝統的な死生観(死者への残された者の弔い)に関して対話する場面がある。小須賀の「自分らが死んだもののあとを慕うのは、妙なことだとお考えになりますか?」との問いに対して、ハーンは「いや。そんなことはない」と答え「美しいことだと思うよ。ただね、わたしなど、西洋の異人のひとりとして考えると、どうもその習慣は、現代のものではなくて、だいぶ大昔の習慣みたいに思われるのだね。」と述べている。
この部分をどう解釈するかであるが、当時の手紙等を分析すると、極東情勢への不安が伺えると同時に、日本の近代化プロセスによる国民化と国民国家の形成、及び「脱亜入欧」し帝国の版図をアジアに広げて行く方向に対して両義的な評価をしている。したがって日本人の伝統的な死生観に一定の価値を認めるものの、それが特に帝国の版図をアジアに広げて行く方向に取られていくことに対するハーンの慎重な表現ながらの違和感を感じる。この問題を神戸時代の見聞を中心とした第3作『心』所収の作品を取り上げて考えてみることにする。
『心』に収録された作品の中で「日本文化の真髄」の冒頭に日清戦争の勝利に関する言及があるが、神戸での日清戦争の勝利の凱旋を見聞した「戦後」(1895年執筆)の第2節以下を解析する。ハーンは、まず第2節において、戦争中の日本人の見聞として「国民は、はじめからおわりまで、自国の実力と敵国の無力を信じきっていた。」と述べ、騎兵や歩兵などの人形、要塞や砲台の模型、サーベルやラッパの玩具がおびただしく売り出されたことや、芝居で戦地の挿話が繰り返し上演されたことなどを報告している。また第2節には提灯行列や凱旋門に関する記載もあるが、それと第4節におけるある部隊の兵士の神戸駅から湊川神社への凱旋の目撃談とを関係させて論じてみたい。
凱旋門は、古代ローマ時代に将軍の勝利を記念してアーチ門が建造されたことに由来する。その造形は天空の神ゼウス、あるいはユピテルを表徴したというが、橋爪紳也によると、同時にU字形の造形ゆえに女性原理のシンボルでもあり、いつからかそこを通過することで過去の性質を脱ぎ捨てて、再生することができるという象徴的な意味が付与されるようになったという。要するに穢れを祓うという意味において、神道の考え方とリンクするわけである。また日清戦争の兵士たちの凱旋において、東京、大阪をはじめ各地で凱旋門が多数作られた。日本の凱旋門の特徴は、石造ではなく木造漆喰仕上げの張りぼてである点だが、たぶん湊川神社の鳥居前の凱旋門も同様な形式であったと思われる。
他方、湊川神社は、幕末に尊王論が興隆するとともに、楠木正成を尊崇する機運が盛り上がり、明治新政府により1872年に創建された国家神道の神社である。また神戸駅は、その2年後の1874年に大阪−神戸間の官営鉄道の開通により設けられた駅舎であり、当時の神戸における文明開化の象徴でもあった。整理すると、日清戦争は1873年に徴兵制度が整備され、日本人がはじめて経験する対外戦争であり、日本人が国民を自覚し、国民国家が凱旋門、湊川神社、神戸駅などの諸装置によって如何に仮構されていったかが分かる。そうした貴重なドキュメンタリーが「戦後」だといえよう。
「戦後」のラストに義理の養祖父である万右衛門の言葉として「日本人はだれでも、死ねばまた帰ってまいります。帰る道をみんな知っております。」と日本人の死生観を開示した有名なエピソードがある。確かに古き時代の日本人の価値観としてその種の死生観があったことを否定するわけではない。しかしそれは同時に、歴史社会学者アントニー・D・スミスがいう、近代における国民国家成立以前の「何らかのオリジン」が再編成されたり体系化されていくプロセスにおいて、近代のナショナリズムが成立したという考えを裏打ちしているのではないだろうか。
さて誌面もなくなってきたが、『心』に収録された「趨勢一瞥」は、神戸の外国人居留地のこれまた貴重なドキュメントである。居留地内の外国人による自治は1899年まで続いているが、その実情がよく分かる。なおハーンは「趨勢一瞥」第6節において「英語の影響は、日本語の変革に効果があったのである。そのために、日本語の語彙が豊富になり、また日本語に収縮性が加わり・・・・思想の新しい形式を表現することができるようになった」と述べているが、語学好きの僕も賛同したい。
参考文献
『ラフカディオ・ハーン著作集』(全15巻)、恒文社
『小泉八雲作品集』(全12巻)、恒文社
金聖一/金井聖一「刻印−名指す/名指されること」、季報『唯物論研究』第74号
橋爪紳也『祝祭の〈帝国〉』、講談社選書メチエ
★『帝国の形而上学−三木清の歴史哲学』(作品社)刊行に寄せて
長い長い共著人生につづき、満を持して刊行した単著第1作が、「京都学派・左派」の三木清の歴史哲学に関する著書だった。そこで、色々な方面から意外な顔をされた。
では、なぜ僕は三木清を単著で取り上げたのだろうか?
1つは、中学時代に最初に読んだ哲学書が、三木清の『人生論ノート』だった点である。これは父に手渡されたもので、どうも父は哲学に興味を持って「哲生」の名の通りその道に進んで欲しかったみたいだ。死、懐疑、孤独、嫉妬、偽善、旅など23題からなる論文集は、三木のいうヒューマニズムをよく伝えている。この本と出会った事を契機に、ギリシア哲学から哲学書を読み漁っていった。
第2は、高校時代に買った『三木清全集』を読んでいるうちに、三木が昭和研究会に参加し、「東亜協同体」論を提唱したことを知った点である。僕は読んでみて納得いかなかった。三木は満州事変を機に、現代を「不安」の時代と捉え、その超克のために1932年の『歴史哲学』以降、独自の「歴史哲学」を展開しファシズムに抵抗していった。それなのになぜ日本の「大東亜共栄圏」といった「帝国」の建設を補完するような「東亜共同体」論を唱えたのだろう? 祖父がB級戦争犯罪人であったせいもあって、この問題は看過できないと考えた。
第3は、大学から大学院時代に、ハイデガーのナチスへのコミット問題、高山岩男らの世界史の哲学、ドイツにおける「歴史修正主義」を学んだ点である。ハイデガーの「総長就任演説」における「指導者」の指導への期待、高山らのいう「道義的生命力」、「歴史修正主義」における地政学的な解釈などなど、ファシズム期特有のテーマが、三木の唱えた「東亜協同体」論と響きあった。では三木の「歴史哲学」の欠陥はどこにあるのか? 何度も『三木清全集』を読み直し、三木哲学の核心である「ロゴス」と「パトス」の弁証法という二元論に欠陥があると気づいた。
以上、3点が主な理由である
もちろん三木清の抵抗といった側面を過小評価するつもりはない。でも戦後の左派知識人は、「東亜協同体」論を弁護ばかりしている。しかも21世紀の現在、世界は英米を中心とした新たな「帝国」の論理が幅を利かせている。歴史が繰り返され、弱者がその犠牲になる。
ソクラテスが言っていたけど、「正しいと信じることは直ちに実行し、有徳な生き方のみが人間の真の求めるものであり、それが真の幸福である」。もちろんソクラテスみたいに死を選ぶような生き方はしないけど、他者と対話すること(問答法)によって、帝国(または国家)に抗する社会を作り出したい。その第一歩として『帝国の形而上学』が読まれることを僕は願っています。
★三木清と私
三木清が生まれたのは1897年である。その前々年、私の父方の曾祖父は、京城で「将校斥候」に出て戦死した。また翌年生まれた祖父は、最初、陸軍士官学校に入学した。その後、健康上の理由から憲兵学校へ転学し、卒業後は平壌・呉・牛込・横浜等の憲兵分隊長を歴任。そして「大東亜」戦争時には、「後方鎮撫」の仕事で南方に赴任し、最後は北ボルネオで防衛司令をしていたため、B級戦犯容疑でチャンギー刑務所に拘置。敗戦後2年位は帰ってこなかった(以上は、元陸軍士官学校生だった亡き父からの話である)。
戦争犯罪人の祖父をもつ私にとって、三木を論じる際の気持ちは複雑である(自らの内なる「帝国」=家父長制殺しでもあるからだ)。周知のように、三木は日中戦争後、1938年に「昭和研究会」の「文化研究会」委員長に就任。翌年、『新日本の思想原理』を2篇ほど発表し「協同主義」哲学を提唱した。詳細は『帝国の形而上学 三木清の歴史哲学』(作品社、2004年)で論じたので熟読して頂きたいが、このコミットメントをめぐり抵抗か翼賛か、批判か転向かという議論がこれまで行われてきた。この「男性」中心の一国主義的議論に立ち入る気はない。ただ私見を述べると、昭和研究会と「協同主義」哲学の挫折は、軍部主導の「帝国」の論理を甘く見た結果に過ぎない。
また哲学的な問題は、拙書で論じたように、1932年の『歴史哲学』からはじまり、三木哲学の根本論理となる「ロゴス」と「パトス」の弁証法という二元論にある。さらに「無」からの創造=技術・芸術論が、「国家同一化」を求める支配的イデオロギーに体よく利用されただけのことである。つまり三木の昭和研究会への参加と「協同主義」哲学の提唱は、抵抗であるか否かに関係なく、そもそも三木哲学が「支配階級に加担してその道具になってしまうという危機」(ベンヤミン)を内包していたと考えるべきだと思う。
さて今回、内田弘氏の編となる『三木清 東亜協同体論集』(こぶし書房)に収録された諸論文をあらためて精読してみた。三木の「東亜協同体」論は、「無」からの創造、ネオヒューマニズム、それらを踏まえた上で、日満支の一体化を目指したものであることを再確認した。また「国民性の改造」や「満洲の印象」などの訪問記を読むと、人情、礼儀、謙譲、威厳といった道徳用語が散りばめられ、あげくの果てに「現代民族論の課題」においては「八紘為宇」の思想に基づく「大東亜共栄圏」原理である。暗澹たる思いに駆られる。
とはいえ、『三木清エッセンス』(こぶし書房)等で三木哲学に興味をもった方には是非とも購読して頂きたい。なぜか? 失望し、闘うことこそ新しい哲学の始まりだからだ。