★スラヴォイ・ジジェク『イデオロギーの崇高な対象』(原書1989年、鈴木晶訳)、河出書房新社
資本の限界は資本そのものであるという公式を進化論的に読むのは的外れである。この公式の眼目は、生産関係の枠組みは、その発展のある時点で、生産力の伸びを邪魔するようになる、といったことではなく、この資本主義の内在的限界、この「内的矛盾」こそが、資本主義を永久的発展へと駆り立てるのだ、ということである。資本主義の「正常な」状態は、資本主義そのものの存在条件のたえざる革新である。資本主義は最初から「腐敗」しており、その力をそぐような矛盾・不和、すなわち内在的な均衡欠如から逃れられないのである。だからこそ資本主義はたえず変化し、発展しつづけるのだ。たえざる発展こそが、それ自身の根本的・本質的な不均衡、すなわち「矛盾」を何度も繰り返し解決し、それと折り合いをつける唯一の方法なのである。したがって資本主義の限界は、資本主義を締めつけるどころか、その発展の原動力なのである。まさにここに資本主義特有の逆説、その究極の支えがある。資本主義はその限界、その無能力さを、その力の源に変えることができるのだ。「腐敗」すればするほど、その内在的矛盾が深刻になればなるほど、資本主義はおのれを革新し、生き延びなければならないのである。剰余享楽を定義するのはこの逆説である。この剰余とは、何か「正常」で基本的な享楽に付け加わったという意味での剰余ではない。そもそも享楽というものは、この剰余の中にのみあらわれる。すなわち、それは本質的に「過剰」なのである。その剰余を差し引いてしまうと、享楽そのものを失ってしまう。同様に、資本主義はそれ自身の物質的条件をたえず革新することによってのみ生き延びるのであるから、もし「同じ状態のままで」いたら、もし内的均衡を達成してしまったら、資本主義は存在しなくなる。したがって、これこそが、資本主義的生産過程を駆動する「原因」である剰余価値と、欲望の対象−原因である剰余享楽との、相同関係である。
up!!★スラヴォイ・ジジェク『斜めから見る−大衆文化を通してラカン理論へ』(原書1991年、鈴木晶訳)、青土社
したがって、ここにあるのは二つの現実、二つの「実体」である。第一の隠喩のレベルに見出されるのは常識的な現実であり、……われわれの主観的な視線によって歪められた実体的「現実」として、見られている。ある物をまっすぐに冷静に見れば、その「本当の姿」が見えるが、欲望と不安によって曇った眼で見ると(「斜めから見ると」)ぼんやりと歪んだ像しか見えない。しかし、第二の隠喩のレベルでは、関係は正反対になる。ある物をまっすぐに、冷静に、偏見を捨てて、客観的に見ると、ぼんやりとした染みしか見えない。「ある角度から」、「関心をもって」、つまり欲望に支えられ、貫かれ、「歪められ」た視線で見たときにはじめて、はっきりとした形が見えてくる。このことは〈対象a〉、すなわち欲望の対象=原因の完璧な説明になっている。〈対象a〉とは、ある意味で、欲望によって仮定された対象である。欲望はそれ自身の原因を遡及的にretroactively仮定する、というのが欲望のパラドックスである。つまり、〈対象a〉とは、欲望に「歪められた」視線によってしか見えない対象であり、「客観的」視線にとっては存在しない対象なのである。言い換えれば、〈対象a〉は、その定義からして、つねに歪んで知覚されるものであり、その「本質」であるこの歪曲を抜きにしては存在しないのである。なぜなら〈対象a〉とは、まさにその歪曲の、つまり、欲望によっていわゆる「客観的現実」の中へと導入された混乱と錯綜の剰余の、具現化・物質化以上の何物でもないのである。〈対象a〉は客観的には無である。だがそれは、ある角度から見ると「何か」の形をとってあらわれる。
引用者註
〈対象a〉:ラカン理論のキーワード。
象徴的去勢による主体の分割によって生ずる主体の片割れ。
その代表格は、乳房・糞便・声・まなざしの4つ。
この〈対象a〉は消え去った〈現実界〉の中で生きている。
★スラヴォイ・ジジェク編『ヒッチコック×ジジェク』(原書1992年、鈴木晶・内田樹訳)、河出書房新社
主観化を超えた主体という次元があらわれるのは、『サイコ』における決定的に重要なショットである。このショットはヒッチコックの精髄といってもいいだろう。「母の家」の階段と二階の踊り場を上から撮ったショットである。この奇妙なショットは二度あらわれる。アーボガストが殺される場面では、階段の上からの……アーボガストのショットが、突然「離陸」し、空中に「飛び上がり」、場面全体の平面図が見えるような一番高い視点へと移動する。ノーマンが母親を地下室に運ぶ場面もまた、同じ階段の下からの「捜査的な」ショットから始まる。つまりこのショットは、主観ショットではないが、自動的に観客を、階上の部屋でのノーマンと母の会話を盗み聞きしようとしている人間の立場に立たせる。続いてキャメラは、メビウスの輪の形をなぞったような軌道を通る、根気強く長いトラッキング・ショットによって、登っていくと同時に回転し、同じような「神の視点」に到達し、場面全体を映し出す。この家の秘密を知りたいという欲望に支えられた捜査的な視点が最終的に到達した先は、その反対物、すなわち場面の客観的な全貌である。……このトラッキング・ショットの決定的な特徴は、通常のヒッチコックらしいトラッキング・ショットの軌道(場面の全貌を映し出すエスタブリシング・ショットから、突出する「染み」へと移動していく)に従っていないということである。もっと別の、ほとんど反対の論理に従っている。すなわち観客の同一化を誘う地面レベルの眼差しから、純粋にメタ言語の位置へと移動している。
引用者註
映画のコードは、コマ、ショット、シーン、シークエンスの4つの基本単位からなるが、一番重要なのはショットである。
主観(的)ショット:登場人物の視線をカメラが追うショット。
トラッキング・ショット:カメラが水平な動きを捉えるショット。
エスタブリシング・ショット:語られている空間の地理を示すショット。
その他、距離(ロング、ミディアム、クローズアップ)、角度(ロー、フラット、ハイアングル)、パン、ズーム、ショット・リバース・ショットなど。
映画をはじめとした映像文化にアプローチするためには、このコードを脱コード化する必要性がある。
★スラヴォイ・ジジェク『否定的なもののもとへの滞留 カント、ヘーゲル、イデオロギー批判』(原書1993年、酒井隆史・田崎英明訳)、ちくま学芸文庫
マルコムXの身振り、押しつけられたファミリー・ネーム、〈父-の-名〉を未知のものの象徴に置き換えるという彼の行為は、一見そう見えるよりもはるかに複雑である。……要点はむしろ、失われた〈起源〉への……参照が、押しつけられた象徴的な同一性による掌握から逃れ、「自由を選ぶこと」を、固定された同一性の欠如を選ぶことを主体に可能にしたことなのだ。空虚としてのは一切の実体的な象徴的同一性を超過している。……はっきりさせておかなければならないことは、未知のものへのこの同一化は、例外であるどころか、象徴的同一化をそのようなものとして構成する特性を明らかにするものであるということだ。象徴的同一化というものはすべて、究極のところは、あるXとの、未知の内容を表わすある「空の」シニフィアンとの同一化なのであり、それは同一性の欠如の象徴そのものにわれわれを同一化させるものなのである。〈父-の-名〉、優れて象徴的同一性のシニフィアンであるこのシニフィアンは、ラカンが繰り返し繰り返し強調するように、「シニフィエなきシニフィアン」である。マルコムXに関してこれが意味しているのは、Xは失われたアフリカの〈起源〉を表わすべく意図されていたにもかかわらず、同時にそれが取り戻しえない喪失を表わしているということである。われわれ自身をXと同一化させることによって、われわれは〈起源〉の喪失を「完遂する」。このアイロニーは、それゆえ、「母性的な」〈起源〉への回帰の行為、〈起源〉への参与を標づけるまさにその行為において、われわれはその〈起源〉を取り消しえない仕方で拒否するということである。あるいは、ラカンの用語でいえば、マルコムXの身振りはもっとも純粋なかたちのエディプス的身振りである。
★スラヴォイ・ジジェク『幻想の感染』(原書1997年、松浦俊輔訳)、青土社
(象徴的)マスターの機能の停止は、電脳空間の宇宙の地平、人類が超えることのできない限界に達したときの、内破の瞬間、我々の社会的生活世界が解体してしまうような瞬間のところに輪郭が見えてくるような〈現実界〉の決め手となる特徴である。その瞬間に、距離が停止し……、文章から音楽からビデオまで、あらゆる情報がこちら側の界面で即座に利用できるようになる。しかしこの私を遠くの外国人から隔てる距離の停止の裏面は、他者との「現実の」身体的接触が徐々に消えていくせいで、隣人がもはや隣人ではなくなるということである。隣人はどんどん画面上の画像に置き換わり、誰にでも使えるということは、耐え難い閉所恐怖症を引き起こす。選択肢の過剰が、選べないという体験になる。誰でも直接に参加できる社会は、それだけにそこに参加できなくなっている人を否応なく排除することになる。……果てしない可能性の未来を開く電脳空間という光景には、その正反対のことを隠している。前代未聞の根源的な閉塞の賦課である。それが我々を待ちうけている〈現実界〉であり、ユートピア……から真っ暗なディストピア……にいたる、この〈現実界〉を象徴しようとするあらゆる努力は、まさにそれである。本当の「歴史の終わり」、つまり無限の方が、実際の限定よりもずっと息が詰まるという逆説を避けようとする試みがいくらもある。
引用者註
ジジェクが参照する用語:ラカンの〈現実界〉〈想像界〉〈象徴界〉は、概ねフロイトのいう〈エス〉〈自我〉〈超自我〉に相当する。
ラカン/ジジェク語に慣れない人は、読みながら各々変換すればすらすら読める。
up!!★スラヴォイ・ジジェク「ポスト-政治の時代におけるカール・シュミット」(原書1999年、古賀敬太・佐野誠編訳『カール・シュミットの挑戦』所収)、風行社
今日のポスト-政治的な状況において、……シュミットがもはや適切ではないということを意味しているのか。それとは全く反対である。シュミットに言及することは、ポストー政治的なリベラルの行き詰まりを看破することにおいて決定的なのである。シュミットの過-政治−政治を、相異なる「原理主義」において認識できるような、我々対彼らという公然とした戦闘への根源化すること−はあらかじめ排除された政治的なものが多元主義的な交渉と合意の規制というポスト-政治的な世界において回帰する形態である。そういうわけで、この再出現する過-政治に対抗する方法は、より多くの寛容、より多くの共感そして多文化主義的理解ではなく、政治に固有なものの回帰、すなわち普遍性を否定するどころか、それと実体としては共通する敵対性の次元の再主張である。これこそが特定の同一性という右派的な主張に対立する、固有の意味で左派的な立場の鍵となる構成要素なのである。
★スラヴォイ・ジジェク『脆弱なる絶対−キリスト教の遺産と資本主義の超克』(原書2000年、中山徹訳)、青土社
ここで問題になっている差異は、ラカンの用語でいえば、理想化と崇高化との差異である。誤った崇拝は理想化をうむ。それは他者の弱さを見えなくする−あるいは、それはむしろ、自己のいだく幻影を投影するスクリーンとして他者を利用し、他者そのものを見えなくする。一方、真の愛は、愛する者をありのままに受け入れる。彼/彼女を単に〈もの〉の位置に、絶対的な〈対象〉の位置に置きながら。真のキリスト教徒であればだれもが知っているように、愛とは愛の活動のことである−それは「束縛の解除」を繰り返す、つらい、骨の折れる活動である。この活動においてわれわれは、われわれの生まれ落ちた秩序とわれわれとを結びつけようとする怠惰な状態から繰り返し抜け出なければならない。哀れみ深い愛というキリスト教の活動を通じてわれわれは、それまで不穏で異質な身体であったもののなかに、われわれによって寛大に受け入れられ、さらには適度に擁護されることによってその煩わしさを抑えられてきたもののなかに、押しつぶされた夢と欲望をかかえた主体を発見する。今日の「原理主義」によって脅かされているのは、この「束縛の解除」というキリスト教の遺産にほかならない。とくにその「原理主義」がみずからをキリスト教徒と呼ぶときには、なおさらである。結局ファシズムとともに生じるのは、敵への愛を拒否しながら、自身の民族的共同体との完全な同一化をもくろむ異教的道徳観への回帰ではないだろうか。
★スラヴォイ・ジジェク「場を保つ」(原書2000年、『偶発性・ヘゲモニー・普遍性 新しい対抗政治への対話』所収、竹村和子・村山敏勝訳)、青土社
もちろんわたしはバトラーの政治目標を支持するが、なにより見てとれるのは、彼女が国家権力をフーコー的に理解し、それを支配と規制、包摂と排除の担い手として見ていることである。つまり権力への抵抗は当然、公的な権力の網から排除、あるいは半ば排除されて、社会空間に居場所を持たず、自分の象徴的アイデンティティを主張できず、影のような亡霊の半ー存在となっている人々の、周縁的な領域に置かれる。この結果バトラーは他のどこより、市民社会の中で国家の規制メカニズムに対して起こるこれら周縁的な行為者の抵抗に、解放闘争を位置づけることになる。それではこの枠組みのどこが問題なのか。バトラーが考慮していないのは、国家権力自体が内部から分裂し、それ自身の猥褻で亡霊のような裏面の上になりたっていることである。公的な国家装置は、つねにその影の分身、公的に否認された儀式、書かれざる規則や制度や実践などの網の目によって補完されている。亡霊のような半-存在として生きている、一連の公的には「目に見えない」行為者のなかには、完全に白人至上主義的な地下組織……がいることを忘れてはならない。……問題なのは、政治体自身が生き延びるために、亡霊的で否認された、公共領域から排除されたありとあらゆるメカニズムに頼らざるをえないということだ。
★スラヴォイ・ジジェク『信じるということ』(原書2001年、松浦俊輔訳)、産業図書
『存在と時間』の問題は、この本が未完だということではなく、長すぎること、余計な部分を含み、他の部分とかみ合わない部分を含むということなのだ−ハイデガーの『存在と時間』以降の問題は、本をどう終わらせるかではなく、その最後の余分をどう除去するか−どう馴致し、しかるべき場所を与えるか−だった。一九二〇年代の末、彼は、結局はカントの超越論的地平と呼ぶしかないものの中で、必死に道を探していた。しばらくは、『存在と時間』の適切な理解の背景として、カントの超越論的図式論や道徳〈法〉を参照するというアイデアもいじっている。ハイデガーがこの道筋を維持して最後までたどりきったとしたら、彼はその理論的構築物の中で、人間の本質が、徹底した〈他者性〉との、トラウマを残す遭遇に根ざしていること、さらにはこの神の〈他者性〉が、啓示の場所として、人、つまり人類を必要とすることという、ユダヤ-キリスト教の根本的な体験のための場所を開くことだろう。ここで言いたいのはそのことである。
★スラヴォイ・ジジェク『「テロル」と戦争−〈現実界〉の砂漠へようこそ』(原書2002年、長原豊訳)、青土社
見せ掛けと〈現実界〉との弁証法が、私たちの日常生活の仮想化、私たちがいよいよもって人為的に構築されつつある世界において生きているというこの経験が、「〈現実界〉への回帰」すなわちある種の「本当の現実」における強固な基礎の再獲得という耐え難いほどに魅力的な衝動を産み出すなどといった、むしろ基本的とも言うべき事実には還元されえないことを……意味している。回帰してくる〈現実界〉は、別なる/ある一つの他のan(other)見せ掛けという地位を有しているのだ。というのも、まさにそれがリアルであり、トラウマに充ち/過剰な特徴をもっているからこそ、私たちはそれを私たちの現実(としての私たちが経験していること)へと統合することができないのであり、まただからこそそれを悪夢のような亡霊として経験することを強いられるのである。これこそが世界貿易センター崩壊の有無を言わさぬイメージだったのだ。こうした、あるイメージ、ある見せ掛け、ある一つの「効果」が同時に、「モノそれ自体」を送り出したのだ。この「〈現実界〉の効果」は、……ここでは〈現実界〉それ自体が、まさに〈現実界〉として維持されるために、悪夢のような非現実的な球域として、感じ取られねばならないのである。……精神分析は、現実を、虚構と勘違いしてはならない、と言うのだ。私たちは、私たちが虚構として経験することのなかに、私たちがそれを虚構化することにおいてのみ維持することができる〈現実界〉の堅い核芯を感得できるようでなければならない、と。要するに、現実のどの部分がファンタジーをかいして「横断的に機能化するtransfunctionalize」か、が理解されねばならないのである。それができて初めて、たとえそれが現実の一部であっても、虚構的な様式において、感得されることになるのである。現実(として現れること)を虚構だと糾弾/曝露することよりももっと困難なこと、それは「本当の」現実における虚構部分を理解することなのだ。
★スラヴォイ・ジジェク『迫り来る革命 レーニンを繰り返す』(原書2002年、長原豊訳)、岩波書店
現代の純粋なプロレタリアを表象するのは失業者であろう。失業者を実体的に規定するやり方は労働者を規定するやり方と何ら変わりないままに留まっているが、失業者は、現実的にも、認識論的にも、その出現を阻止されているか、あるいは否認されている。その結果、失業者は働くことのできない労働者といった潜在性において宙づりにされている。今日われわれは、ある意味で、「すべて失業者なのだ」。仕事はますます短期契約によるものへと変化する傾向を示し、その結果、失業状態が恒常的なゼロ・レヴェルとなり、ときどきある仕事が例外といった状態を示すまでに到っている。とすれば、これはまた、その労働者へのメッセージが、彼らの時代は終わり、彼らの存在そのものが時代遅れであり、彼らすべてが純粋に人道的な同情の対象と見做されるといった「ポスト産業社会」の主唱者への回答であるべきだ、ということになってしまうのだろうか? 現代資本が支配する世界における労働者への余地はいよいよもって狭隘となっており、われわれはこうした事実から唯一つの論理的結論を導き出すしかない。すなわち、もし現代の「ポスト産業」社会がみずからの再生産のためにより一層少ない労働者しか必要としないとすれば、過剰なのは労働者ではなく〈資本〉それ自体なのだ、と。
★スラヴォイ・ジジェク『イラク ユートピアへの葬送』(原書2004年、松本潤一郎・ 白井聡・比嘉徹徳訳)、河出書房新社
二〇〇一年九月十一日、ツイン・タワーが攻撃された。ベルリンの壁崩壊はその十二年前、一九八九年十一月九日であった。その日は「幸福な九〇年代」、フランシス・フクヤマの「歴史の終わり」という夢想の先駆けだった。その夢想においては、リベラル民主制が原則として勝利し、探求は終わり、グローバルでリベラルな世界的共同体の到来はもうすぐであり、このような超ハリウッド的ハッピー・エンドへと向かう道ゆきの障害は、たんに経験的かつ偶発的なもの(自分たちの時代が終わったことに依然として気づかぬ指導者たちによる、散発的な孤立無援の抵抗)にすぎない、と信じられた。対照的に九月十一日は、クリントン的な幸福なる九〇年代の終わりの主要なシンボルであり、イスラエル西岸地区のあいだ、EUの周囲、合衆国−メキシコ間国境、いたるところに新たな壁が出現しつつある、来るべき時代のシンボルであった。新たなグローバルな危機をめぐる予測が立ちはだかっている。おびただしい経済危機/恐慌(crises)、軍事的ならびにその他の無数の破局、恒常的な緊急事態……。ジョージ・W・ブッシュの(「世界は悪に対する行動への勇気をもつのか、もたないのか」といったたぐいの)公式見解における、抽象的な倫理にまつわるレトリックの極度のインフレーションそのものが、合衆国の立場をめぐる、倫理の途方もない惨状を露呈させている。このような事態においてなされる倫理への依拠の果たす機能とは、純然たる幻惑作用なのである。
★スラヴォイ・ジジェク『ラカンはこう読め!』(原書2006年、鈴木晶訳)、紀伊國屋書店
二〇〇五年十一月、アメリカ副大統領ディック・チェイニーはこう述べた−テロリストを撲滅するためには、「いわば闇の部分でも……仕事をしなければならない。やらなければならない仕事の大部分は、議論抜きで、秘かにおこなわれなければならない」。まるで生き返ったカーツ(引用者註:映画『地獄の黙示録』のカーツ大佐)が話しているかのようだ。二〇〇四年の中頃にNBCで放映された、グアンタナモの囚人たちの運命をめぐる討論で、彼らが受けている待遇は倫理的にも法的にも許容範囲内だという妙ちくりんな主張のひとつに、こんなのがあった。「彼らは爆弾が殺し損なった連中だ」というのだ。彼らは米軍による空爆の標的であり、空爆は合法的な軍事行動の一部だったのだから、その後で捕らえられたとしても、その運命に不平を言うべきではないというわけだ。要するに、どんな待遇であろうと、死んだよりはましだ、と。この推論はその意図以上のことを語っている。この推論は囚人たちをほとんど文字通りに「生ける死者」、すなわちある意味ですでに死んでいる人間にしてしまっている……。かくして彼らは今やジョルジョ・アガンベンがホモ・サケル(homo sacer)と呼ぶものの実例になってしまっている。彼らを殺しても罪に問われることはない。彼らの生命はもはや法的には無だからである。もしグアンタナモの囚人たちが「二つの死の間」の空間に置かれ、ホモ・サケル、すなわち法的には死んでいる……が、生物学的にはまだ生きている者の立場に立たされているとしたら、彼らをそのように扱うアメリカ政府もまた一種の中間的な法的立場、つまりホモ・サケルに対応するような立場にいる。法的権力として行動しながら、その行動はもはや法によって守られても束縛されてもいない。彼らは、いまだに法の領域内である空っぽの空間で行動しているのだ。
★スラヴォイ・ジジェク「差延への回帰の請願」(原書2007年、『来るべきデリダ−連続講演「追悼デリダ」の記録』所収、藤本一勇監訳、澤里岳史・茂野玲訳)、明石書店
戦略的な理由から、「最小限の差異」を表す私の主人のシニフィアンは、差延ではなく、視差である。視差の標準的な定義は、新たな視線を提供する観察者の立場の変化が引き起こす、客観の見かけ上の移動(背景に対するその立場の移行)というものである。つけ加えられるべき哲学的な捩れは、観察された差異が、ただ「主観的」なもの−「外部に」存在する同じ客観が二つの異なる観測地あるいは視点から見られるという事実に起因する−にすぎないわけではない、ということである。それはむしろ−ヘーゲルならこう述べただろうが−主観と客観が内在的に「媒介され」、その結果、主観の観点における「認識論的な」移行が客観それ自体における「存在論的な」移行をつねに反映させるということである。ラカンふうに述べれば、主観の凝視は、その「盲点」という形で、「客観のうちにある、客観それ自体以上の」もの、客観それ自体が凝視し返してくる点という形で、認知される客観それ自体のうちにつねにすでに書き込まれているのである。
引用者註
2004年死去したデリダへの追悼文。